現象学が明らかにしたことは、私たちの活動のほとんどすべてが非明示的なものによって支えられているということだろう。以前書いた記事『哲学の三層構造』において示した「受動性の層」がそれにあたる。フッサールは人々が互いに納得しながら議論をすすめていく土台を作り、心的体験を掘り進めその成り立ちをはっきりさせることで哲学的な問いをほぐそうとしたが、この「明確化」の試みには彼とは異なるアプローチをとる哲学者がいる。それがウィトゲンシュタインである。
理論というのは、《何らかの基礎的主張により、問題となっている実践の主要な特徴をすべて説明する体系のこと》(p.84)である。たとえば、言葉とはなにか、ということは「語の意味とはそれが表す対象である」と言ったり、「語の意味の違いとはその語の使用の違いである」と言ったりして、その主張を基礎に理論を形成し、それによって言語のいろいろな側面をすべて説明しようとする。だが、「わっ!」や「こんにちは」はなんの対象も指示してはいないし、「walk」と「walks」の使われ方が異なるといっても意味が違うという人はだれもいないだろう。もちろんこれを訂正して、たとえば「walkとwalksの使用の違いは重要ではない。意味の違いは、””重要な””使用の違いのことだ」とするとしても、一体なにが重要なのかは明確ではない。つまり、「使用」という概念は実は理論の基礎とするほど明確な概念ではないのである。
ウィトゲンシュタインはその哲学的経歴の前期における主著『論理哲学論考 (岩波文庫)』において、哲学的問題をすべて解決するために一つの理論を作り上げた。それが写像理論である。つまり「語は対象を名指す」「述語は性質を名指す」「文は事態を指す」「実際そのようなあり方としているならその文は真である」といったような、「写し取る」関係である。このように積み上げた理論によって、哲学的問題は語りうるものと語り得ないものに区別され、語り得ないことにいくらアプローチしてもナンセンスに陥らざるをえないことを述べた。
だが後期においては、理論的アプローチは捨て去られる。写像理論の理想では、一つ一つの語がそれに応じて厳格な使用法を持たなければならなかった。だが、言語実践というものはもっと多様なのだ。たとえば《紅茶を入れるミルクについての会話から、価値ある生き方についての会話(中略)、専門的な科学の論文、数学的証明、倫理的言説》(p.87)等々。このような多様性を前にして、彼は私たちの様々な実践の特徴を際立たせ把握していこうとする。
ひとつに固執する病気
私たちはさまざまなことを了解している。「今日は曇っている」と言われれば、それがどういうことなのかがわかる。「空が青い」と言われれば「空」も「青い」もわかる。だが改めて「空とはなんであるか」とまじめに問われると困惑してしまうのも事実である。ウィトゲンシュタインはこの「不明瞭な物の見方」を〈像〉と呼ぶ。
不明瞭なまま話すことはきわめて当たり前のことである。
問題が生じるのは、我々が像の要素に対し、知らず知らずのうちに典型的なその使用の状況を結びつけ、それを物事を把握するための絶対的な枠組みとしてしまうときである。
後期ウィトゲンシュタインの主著『哲学探究』では、「アウグスチヌス言語像」から話がはじまる。それは「言語」についての像であり、すなわち、「言語における語は対象を名指す。――文とはそのような名前の結合である」などと漠然と考えられているものである。ところで「名前」と一口にいっても、世の中にはいろいろなものがあるが、私たちはついつい中ぐらいの大きさのゴロッとしたものの名前に限定してしまう。このような、像を解釈するための状況を〈モデル〉という。
これにより、名前とは指差しできるような対象を表すものでなければならないとされ、これを拡大して、たとえば数字「1」「2」「3」といったようなものは””心の中の指差し””つまり””精神の活動””によって指差される神秘的な対象として君臨することになる。そしてそのような神秘的な対象のありかを、伝統的に哲学ではイデア界と呼んで来たのである。
ここでの問題は曖昧な考え方にあるのでもなければ、それを解釈するモデルにあるのでもない。問題なのは像とモデルのペアに固執してそれを絶対的な枠組みとして扱ってしまうことにある。こうして私たちはイデア界などという別世界を想定する哲学理論を組み上げてしまうことになったのだ。
人はある枠組みを絶対視し、それを基礎としてなにかを統一的に説明しようとする衝動:形而上学的衝動を持っている、ともいえる。この囚われの病気を治療するには、哲学的像に対して満足してもらえるような代替案を出すか、あるいは異なるモデルを用意してその像の不明瞭さ加減をわからせるか、どちらかが妥当なところだろう。
ウィトゲンシュタイン自身はいろいろある立場の、どこにも与しない。だがそれならば「本当のところは」いったい何が正しいのか。その見方ならそれは正しい、という以上のことはまったく何もいえないのだろうか。
たとえばラコタ族というネイティブ・アメリカンは、最初のアメリカ人は地下世界から現れたのだという。一方考古学者によれば、最初のアメリカ人はベーリング海峡を越えて約一万年前にアジアから渡って来た、という。どちらが正しいのかといわれれば考古学者のほうを支持したいところであるのに、ウィトゲンシュタインはそう言わないのだろうか――なにしろラコタ族の実践の中においては地下世界説はあたりまえのことであり、考古学者にとってもそれは同じなのだから。だとすると、ウィトゲンシュタインは「真理の相対主義」に味方しているように思える。真理の相対主義とは次のように定式化できる。
- その信念の真偽は、何らかの実践の標準に相対的に決定される。
- どのような実践も同等にその信念の真偽を決定する権限を持つ。
私たちは信念の真偽を判定する技術を学んでいき、それによって真偽をいう。これは客観的事実との対応によって真偽を判定することの拒否である。それに加えて、二番目のテーゼによって、特定の実践を特権化することを拒否する。相対主義者には「お前はどうなんだ(それ自体は正しいのか?)」と言われるという致命的欠陥があるが、ウィトゲンシュタインはどう考えていたのだろう?
まず(1)にしても(2)にしても、彼がそれをテーゼとして受け止めることはないだろうと思われる。それは非常に説得力をもつ哲学的像のひとつにすぎない。事実や技術や実践という明確な内容を持つわけでないことばがうろうろしている点でも、そういえる。とはいえ、そのようなラフな言い方でよければ、彼は(1)を受け入れるだろうと思われる。話のキモは、彼が奇妙な実践を見てもはっきりと「まちがっている」と言わない点だ。このところが彼を相対主義者らしくしている。
この点を考えるために、『底面積で薪を売る人々』のことを想像してみよう。
彼らは薪を売る時、いくら積まれているかはまったく気にせず底面積で売る。つまり、上に積み上げて行けば、値段はまったく変わらないのに薪はたくさん手に入ることになる。「これが彼らのやり方なのだ」と彼は書くが、これは(2)を間接的に支持しているわけではない。ウィトゲンシュタインが「これが彼らのやり方なのだ」と言うとき、《そのコメントは「この想像上の人々と我々が同じ信念の真理について対立した見解を持っているということは自明でない」という事実の確認として理解できる》(p.206)。つまり、想像上の人々が私たちの目から見ておかしなことをしているからといって、想像上の人々と私たちのあいだになにか信念の対立があるとは限らないという意味だ。もちろんあるかもしれないが、少なくともこれだけではよくわからない。
想像上の人々は、私たちから見て薪を売っているように見える。だがもし本当に商売でやっているなら、底面積で売るのはいかにもどうかしている。これを「その実践のポイント=目的・勘所が理解できない」などと呼んだりする。そしてポイントが理解できない以上、そこでどのような信念が問題になっているのかさえわからない。彼らは明らかに量の違う薪に対して「どっちも同じ量だよ」と言ってくる。薪は上にものすごく重ねられ、数倍の高さになっているのに。だがいったい「量」という言葉で何を言おうとしているのか、ポイントが理解できない以上、よくわからないのである。
もしもこの想像上の人々の商売が利益を目的とするものではなく、歴史的な経緯から単にそうすることになっているというのであれば、まだ話は通じるだろう。もしかしたら彼らのほうも、利益目的なら「同じ量なわけないじゃないか」とこちらの話に同意してくれるかもしれない。両者のあいだに対立はなかったのだ。
つまりどういうことかといえば、もしも「あの薪の束と、この山積みの薪の束は同じ量だ」と主張することが真理でありえるのは、その記述のポイントがどこにあるのかによるのである。たとえ同じ見かけはまったく同じ記述だとしても、その真偽を判定する方法は記述のポイントによって異なるというのは当たり前の事実である。
だからラコタ族と考古学者の「対立」にしても、それがたとえ「最初のアメリカ人」という同じ言葉を用いているからといって本当に対立しているとは限らない。ラコタ族は宗教的文脈のうちでそう言っており、考古学者は科学というものをもとにそう言っている。だから一方的に彼らを間違っているなどとは言えない。
だがもし、ラコタ族が科学的主張として「最初のアメリカ人は地下世界から現れた」と言い出したならそれは間違いである。科学という実践は、証拠を説明し、的確な仮説やモデルを構成することがポイントなのだから、DNA分析や遺跡という強力な証拠を無視して地下世界ばかりを言い立てるなら、上の科学的主張の真偽を決定する権限はない。この点でウィトゲンシュタインは「なんでもあり」を追放する。
ウィトゲンシュタイン自身は宗教的実践を一種の「遅れた科学」と見なして、「間違い」と断定することには批判的である。ウィトゲンシュタイン的観点からすると、そのような態度はすべての事柄に科学的思考の形式を当てはめようとする悪しき科学主義でしかない。だが、そうだとしても、もしラコタ族が科学をやっているのだとしたら、その信念は間違いと断定してよいのである。
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