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にんじんと読む「ウィトゲンシュタインとウィリアム・ジェイムズ(ラッセル・B・グッドマン)」🥕 第三章

第二章 ウィトゲンシュタインと『宗教的経験の諸相』

第三章 ウィトゲンシュタインと『心理学原理』

 ウィトゲンシュタインはジェイムズのことを幾度となく言及し、最晩年に至るまで彼を批判し続けている。だがだからといって、彼から何も学ばなかったわけではないし、「本物の人間」とまで言わしめている。また、こうも書いている。

 

《哲学の仕事がどれほど必要とされているかは、ジェイムズの心理学によって示されている。心理学は科学であると彼は言うが、にもかかわらず、彼は科学的な問題はほとんど論じていない。彼の動きは、自分が捕らえられている形而上学という蜘蛛の巣から逃れようとする(かずかずの)試みにすぎない。彼はまだ歩くことも飛ぶこともできず、ただもがいているだけだ。そうしたことは、興味深くないというわけではない。ただ、科学的活動ではないというだけだ》

 

 ウィトゲンシュタインは彼の行う科学的ではない活動を強調し、もがいていることを興味深いと評価している。だからこそ、ジェイムズは哲学的治療を必要としている者として、ほかの哲学者たちと区別される特別な哲学者として、多大なる賞賛と尊敬を与えられているのだ。哲学者のなかには「問題の喪失」といったような病気に罹っている者がいて、そうした人たちは何かを解決したつもりになって、「すべての事柄がまったく単純」で「深遠な問題など存在しない」風になっており、「限りなく浅く陳腐」なものを書く。

 ウィトゲンシュタインは、ジェイムズの主著『心理学原理』を読みこんだ。これは科学としての心理学を目指しながら、一方で科学からの逸脱、科学に対する批判を含んでいる。ジェイムズがこの原稿に十二年費やしたとき、彼はこの本が「証言しているのは」、「心理学の科学など存在しないということ」だと述べている。著者本人のこうした言葉にもかかわらず、この本は興味深いものとなった。ここにはジェイムズの基本的な経験主義的コミットメントが現れている。そうしてウィトゲンシュタインが苛立っていたのもジェイムズの持つ「経験主義」=「経験は十全な基礎的カテゴリーである」であった。たとえばジェイムズは《内観による観察は、我々が何よりもまず常に頼らなければならないものだ》と書いているが、ウィトゲンシュタインにすれば、それは心に関する重大な錯誤の源泉だった。

 

 さて、ジェイムズは、自分がしていることは「現象」をただ記述することだと考えている。一方、ウィトゲンシュタインは「概念」を相手にする。現象ー概念について、ウィトゲンシュタインははっきりと、

 

《我々が分析するのは現象(たとえば思考)ではなく、概念(たとえば思考という概念)なのであり、それゆえ語の使用なのだ》

 

 と書いている。現象、経験は頼りになる固い地盤を私たちに与えるように思えるが、それはまちがいだ、と。第一章で既にみたように、ウィトゲンシュタインの「概念」は生活形式から生じ、言語ゲームをすみかとし、経験的な、歴史的な傾向を持っている。『論考』を書いていた頃のウィトゲンシュタインは概念を永遠的なものとして据えていたから、これは後期に至り、彼が経験主義に傾いたともいえるかもしれない。だが、彼は経験主義者ではない。概念と経験の決定的な区別を、彼は保持し続けた。

 概念には私たちの生に結びついた決まりがある。チェスにおける「チェックメイト」という現象について、最後の一手をじっくり観察することによってそれが何を意味するか見出すことができるだろうか。駒の動きとチェス盤は見ることができても、それをチェックメイトたらしめている規則など見ることはできない。それは規則が隠されているからではなく、《私たちの「自然誌」のなかで現れる「社会的事実」》だからだ。

ウィトゲンシュタインは規則について、行き過ぎた主張を避ける。規則は形而上学的な領域、つまり人間からはまったく独立した領域、たとえばイデア界などに刻み込まれているなどとは思わない。また、規則は完全無欠な精密機械でもない。だが一方で、規則は全て使う人の解釈に任されているのだという過激な規約主義も避ける。

 

 一方、ジェイムズが言語の意味について考えるときは、やはり経験こそが意味だと考える。彼は「そして」「もし」「または」のような語の使用に伴う特定の感じについて述べている。だがウィトゲンシュタインのいうように、《「リンゴとそして梨を僕にくれ。そして部屋から出ていってくれ」というとき、二つの「そして」を発音する際に、同じ感じがするだろうか」》。

 

《「語の意味というものは、語を聞いたり口にしたりする際の経験ではないし、文章の意義はそのような経験の複合ではない」》

 

 ジェイムズはたとえば「意図」といったような「心の状態」を、主観的で心理学的な出来事とみなす。そしてそのことによって、私たちの言語の使用や思考における技法・制度・習慣・状況の役割を忘れる。

 

 

 さて、ジェイムズは「自分がしていることは「現象」をただ記述することだ」と考えている。この説明的なものから記述的なものへの動きを、研究者たちは「プロト現象学的〉と見なす。心理学者たちはどうしても無意識の心的過程について詳しく主張したくなってしまうのだが、それは神話にすぎない。私たちはこうした要求に抗わなければならない。ただ記述することに努めなければ……、これがジェイムズの勧めである。

 この勧めと、ウィトゲンシュタインの考えは類似している。

……我々はいかなる種類の理論も立ててはならない。我々の考察においては、仮説のようなものが許されてはならない。あらゆる説明は捨て去り、記述だけがその代わりになされるのでなければならない。

 哲学はあらゆることを眼の前に置いてみせるだけであって、何事も説明せず、何事も推論しない。――あらゆることが公然とそこにあるのだから、説明すべきことは何もない。なぜなら、隠れているようなものに、我々は興味を抱かないからである。

 哲学をしているとき、我々は、感じ(feelings)を実体化したくなる――そのようなものはまったくないところで。

 

  ひとが私に、「君は今朝自分の部屋に入ったとき、自分の机を再認したか」と尋ねれば、――私はきっと「もちろん!」と言うだろう。にもかかわらず、その際、再認という行為が生じたと語ることは、ひとを誤らせる。その机は私にとって、もちろん奇異なものではなかった。私はそれを見ても、他人がそこに立っていたり異様な事物があったりしたときのように驚きはしなかった。