にんじんブログ

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(メモ)「いや」について

 私たちは自分の「本当の気持ち」がわからなくなることがある。

 なにかの受け売りなのかはわからないが、にんじんは昔から、「本当の」という言葉がつくときは完璧に疑わしいものとして処理せよという持論を持っている。この言葉がつくとき、すべてのものは胡散臭くなる。同様に、真実のとか、実際はとか、真理とか、よく用心してかからないとおかしなことになる。

 が、一方で、「自分の本当の気持ちが分からない」という感じは、紛れもなく本当である。これは内観が真理だという意味ではない。「後で考えてみればあのとき私は自分の気持ちが分かっていたのだ」ということは十分ありうるし、そのようになんらかの意味でその信念は間違っていることがありうる。だがやはりそれは一個の報告として、受け入れられる。

 「本当の気持ちがわからない」ということは、「自分がどうすべきかわからない」「どういう態度をとるべきかわからない」ということにだいたい関係しており、またそこには既に複数の選択肢が存在しているのがふつうである。もちろん、混乱してわけがわからない場合もあるだろうが、そんなときには「本当の気持ちがわからない」という言葉は出てこないだろう。というのも、本当の気持ちについて言及する以上、本当ではない気持ちがあるのは、やはりふつうのことだからである。

 するとこれをただの一語で「葛藤」とまとめることは正当だろうか。

 一般的にはもちろんそうではない。「本当の気持ちが分からない」というのは相手に対する単なる非難、一種のお約束のような、定型文のような、ともかくなんの葛藤も表していない場合もありうる。だがにんじんが扱いたい「本当の気持ちのわからなさ」は「葛藤」のことであり、これを特に「倫理的葛藤」と呼んでもよい。

 ケーキが目の前にある時、ダイエットのために食べてはいけないと考えるのと、やはり食べたいと考えるのは、ほとんど同時に起きうる。それどころか、「Aすべきだ」と「Aすべきでない」という指令は、おそらくほとんどの場合、同時に為される。倫理的葛藤が起きるのは、すなわち、本当の気持ちがわからなくなるのは、そのような声を受けたうえで、どのような行動をとればよいのか悩むときである。

 これは習慣の対立であり、激突である。

 人はふつう、傷つき、痛むのを避ける。だが注射することの効用をも理解しており、そちらを選ぶことは個人的にも社会的にも望まれる。Aすべき、Aすべきでない、をそれぞれ導いてくる多くの源泉を分類すると、「自己は複数の自己から成っている」と言いたい衝動に駆られることだろう。たとえば道徳的には、身内を優先すべき、仲間を優先すべき、社会(公益)を優先すべきといったような対立があり、また、ホモ・サピエンスという種の性質上、あるいは教師という社会的役割上、等々。他にも色々あるだろう。

 これらの源泉には、それぞれ強弱があって、特に「痛むこと」は極めて強い発言権が与えられている。注射すべきことはわかっているのに、痛いからしたくないのもそうだ。私たちはしぶしぶ注射を決めた後も、「注射は嫌だ」と言う。注射すべきだと完璧に納得しており、仮に注射されないことになったら文句を言うとしても、私たちはなお「注射は嫌だ」と言うことを憚らないだろう。まるで断末魔のようである。

 

 源泉を「本能的」と「理性的」によって区分し、「本能的」とされるほうを軽視するのはもはや伝統的である。また「主観的」と「客観的」とに区分し、「主観的」とされるほうを軽視するのも、やはり伝統的である。私たちは倫理的決定をするにあたって、即ち、さまざまな「声」を勘案していかにすべきかを、意識的にあるいは無意識的に決定するとき(たいていは無意識だろうが)、どれほどそのような伝統的方針が作用しているかに気づかない。主観的であるがゆえに排し、個人的であるがゆえに排し、本能的であるがゆえに排するのは、主観・個人・本能の側からみればとうてい民主的ではないだろう。ここにまた、断末魔が響いている。本能的なものを尊重したところで、決定は覆らないかもしれないが、好ましくないことを非理性的、あるいは馬鹿、頭がよくない、教養がないなどと弾圧しておさえこむのはよくないのではないか?

 だがなぜよくないのか。そのよくないという決定も、民主的であれといったようなありがちな考え方に引っ張られているだけではないのか。少なくとも、議論に本能的な参加者を増やすことはあまり甲斐がないように思われる。彼らはただ叫ぶだけだ。「注射はやめろ!」「痛いんだからとにかくやめろ!」彼らは徹底的な保守であり、現状の変更を絶対的に回避しようとする。私たちはそのような声を全身に聞きながら病院で注射を打ったり、行きたくもない労働に駆り出されたりするのだが、「嫌だ嫌だ」という声は消えることもなく鳴り響く。私たちは我慢し続ける。西洋的伝統が理性的なものを重んじたのは、この意味できわめて自然なことに思える。彼らは何年経ってもガキのままだから、「議論」ではなんの役割も果たさない。参加させたところでやはり文句を言う。嫌だという考えを抱きしめてやったところで、嫌なことの嫌さ加減が変わるわけでもない。そして、議論がいい方向へ進むとも限らない。

 あるいは、議論というような比喩が、限界に達しているのかもしれない。私たちの頭のなかにテーブルがあって、それを囲んでどうしようか悩み、「私」という議長が結論をまとめあげるわけではない。「私」の役割は固まった原稿を読み上げることであり、決定に関与することはまったくない。先ほど、にんじんが伝統的な考え方という言葉を持ち出したのは、私たちがいかに暗部にひそむ傾向性に支配されているかを示すためでもあった(ただし、機械論的に考えてはならない。それは言葉が常に持つ比喩的な響きに、乗せられているだけにすぎない)。

 ならばもう何もしなくていいのか。何も変えられないのだから。議論の参加者を増やしたところで何かが変わるわけでもないし、好都合なほうに転ぶとは限らない(というより、何が「好」都合なのかをいま決めているわけで、なおさら何も変わらない)。「みんなの意見を聞いたほうがよい」という考え方もあるが、馬鹿を三人集めたところで文殊の知恵にはならぬ。

 どうすればいいかわからなくなってきたかもしれない。

 しかしいま、私たちは「脳内会議」について「脳内会議」している。あなたは報道官にすぎず、会議の結果を待っている。いずれ決定するか、テーブルをひっくり返して逃げ出すかのどちらかになる。ひっくり返して逃げ出すのも、実はよくあることなのである。レポートをやったほうがいいが、別にやりたくもないとき、人は回避する(「寝ちゃった」「すっかり忘れてた」)。これはやらないほうに決めたわけではなく、選択を回避しただけである。が、結果的にはやらないほうに決めたことと同じになっているので、「やらないほうに決めたのだ」と自己評価しがちであり、それによって自分の人格をも評価する。だが回避は回避でごく普通のことであり、ストレスを感じたときにとりがちな行動であるから、それほど人格には関係しない(人格という言葉で何を意味するかにもよるが)。「逃げるのはよくない」という発想によって、あなたは「なんでもいいからはやく原稿をよこせ」と指示を出そうとする。だがなぜ逃げるのがよくないことなのか。

 ここに登場するのは、かつてテーブルから追放された氏である。氏曰く、

「そんなことに理由はない。ただ気に入らないからである」と。