にんじんブログ

にんじんの生活・勉強の記録です。

MENU にんじんコンテンツを一望しよう!「3CS」

にんじんと読む「ふわふわする漱石(岩下弘史)」🥕 第二章

第二章 『文学論』における「文芸上の真」

 「科学上の真」と対置される「文芸上の真」は、当時盛んに議論されていた。これについての記述は『文学論』第三編からはじまる。彼が定義した「文芸上の真」が成立するのは、「作物が読者の情緒を動かす」時、「描写せられたる事物の感が真」である感じをもたらす時である。すなわち、この真理は文学の受容者に依存し、またそれのみに依存している。すると当然、時代によって「文芸上の真」の標準も変化する。実は漱石のこの定義は、当時他の多くの論者たちの真理観とは異なっているのだ(受け取り方以外も要求するのが普通だった)。

 

 むしろここで参照すべきはウィリアム・ジェイムズの『宗教的経験の諸相』である。彼はこの本の中で、科学では明かされることのない「宗教上の真」について語ろうとしており、また、漱石もこの『諸相』を読み多くのコメントを残している。

 そもそもジェイムズは、「真理」というものが時間も空間も越えて成り立つ最高次の価値であるというような思潮をよしとしなかった。真理とは人間的な観点を離れて存在するものではない。そうしてここでいう人間とは、まさしく個々の人間のことであり、ジェイムズの関心はつねに「主観的現象」にあった。

 しかし一方で、ジェイムズは宗教によってのみ明らかにされる真の事実が存在するとも考えていた。宗教的感情には真の実在の様相が提示されている、とみていたのである。この彼の態度については、厳しい批判にさらされている。ここにはプラグマティストと、神秘主義者としての二人のジェイムズがいるのだ―――とはいえ、いまここで重要なのは、漱石がこのどちらのジェイムズにも関心をもっていたことだ。『文学論』のスタンスはあくまでも前者のジェイムズと軌を一にするのだが、漱石は真に実在するものはなんなのかという問いにも、関心があったのだ。