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にんじんと読む「ふわふわする漱石(岩下弘史)」🥕 第三章

第三章 「文芸の哲学的基礎」と「真に」存在するもの

 漱石は「文芸の哲学的基礎」において、まずこう確認する。

この世界には私と云うものがありまして、あなたがたと云うものがありまして、そうして広い空間の中におりまして、この空間の中で御互に芝居をしまして、この芝居が時間の経過で推移して、この推移が因果の法則でまとめられている。

 しかしこの常識的見方は甚だ怪しいという。「私」というものからして、怪しい。これは客観的な仕方で世の中に実在するわけではなく、便宜のためにそう名付けられた意識現象に過ぎない。私というものの便宜は、物我の区別がつくことである……。

 漱石にとって「真の事実」は、「意識の連続」。つまり「真にあるものは、ただ意識ばかり」である。そして次に問題とするのは、どんな内容の意識をどんなふうに連続させるかということであり、ここに必要とされるのがその選択の標準となる「理想」であり、それこそが特殊を生む。意識の連続の方向を定めたあとは、そこから次第に空間、数、因果の法則が抽象される。しかしもちろん、こうしたことはその意識の連続のなかにおける「便宜上の仮定」にすぎない。時間や空間が製造されたあとは、物我の区別は容易であり、そこからどんどんと分化が進んでいく。それは意識の範囲の拡大である。

 たとえば一色しか見ないところに五十色を認めるものは、その点、非常に意識が拡大している。だが、いたずらに選択肢が増えても仕方がない。重要になってくるのは「理想」である。漱石にとって「理想」とは、単に意識を連続させる(生存する)ことのみを目的とする原初的状態から、人間が変化していく際に得られるものだ。いわば「いかに生きるか」である。

 意識の連続のなかから生まれた自己の関心、そしてそれにより形成される理想、そしてそれによる選択、そしてそのうち徐々に「私」の輪郭がはっきりしてくる。だから「理想」とはきわめて重要な概念であるが、漱石にとってもう一つ大事だったのが「開化」―――人間が世界を好ましい形に変形していくこと――だった。漱石は、文学がこの開化に関与しないのなら文学は廃すべきだとさえ言っている。だがもし、人々が理想だけを追求し、それぞれの関心に応じて世界を切り開いていけば、人々はだんだんと違う方向を向くようになることが予想される。

皆が皆、自身の関心事に専心するようになると、文学の存続も危うい。というのも、それぞれの文学作品に呼応する者がいなくなり、「文界」は「永久の寂寞」(略)に入ってしまうからである。文学者は読者に影響を及ぼすことで「開化」の経路を切り開くべきだとされていたが、もし文学者と読者がお互いに関心を異にするのであれば、いかにして「開化」を成し遂げることができるのだろうか。

ふわふわする漱石:その哲学的基礎とウィリアム・ジェイムズ

  漱石はこう答える。

 文学者の理想に接する読者はもし「機縁が熟して」いれば、「還元的感化」を受けるのであると。この「還元的感化」という漱石独自の概念によって、文学者は異なる関心をもつ読者にも影響を及ぼすことができるのである。故に、これは開化への経路である。

 では「還元的感化」とはなにか。

 まず、文学作品とは文学者の「ある種の意識が、ある種の連続をなすのを、其儘に写し出したもの」である。そこに読者の意識が一致することによって「享楽の境に達す」ることがある。この一致の極度において起こる現象が、「還元的感化」である。

 次に、その一致の極度とはなんであるか。それは、「真に」存在する誰のものでもない「意識の連続」、こうした全ての「元」にある意識の連続に「還」ることである。これは単に原初に戻ることではない。高度に分化が起こったあとでふたたび戻ることだ。*1そして原初的な意識の連続状態、つまり分化される前の基礎的状態を「oneness」という。還元的感化が起こると、読者は「oneness」の状態を再び訪れるが、読者はもはや高度に分化しており、文学作品を離れた後も読者の中にその「痕跡」が残るのだと漱石はいう。

 痕跡云々はまず脇において、そもそもonenessに戻ることなどありえるのだろうか。

 このことについては漱石も手厳しく批判されている。それに加えて、「ジェイムズさんだって個々人の意識は断絶しているといっていますよ」と駄目押しまで食らう。だが、個々の意識が「元」に戻るのは、それが無人格的な「意識の流れ」から生じきたったものだからというのが漱石の論であり、そこに本質的な断絶があるとまではいえない。実際、ジェイムズも意識が融合する可能性について追及しているのである。

 漱石は「還元的感化」によって達成されるところを「大悟する」ことにたとえている。つまり、悟りだ。詩や哲学を読んだり語ったりしたあとに起こる、静寂な状態、「ほとんど受動的な享受の状態にあり、実際に考えることなく、観念や心像や情緒がいわばひとりでに」心を通過していく、そんな意識……。

 

 

 

*1:この考え方は老荘を思い出させる。