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(メモ)龍樹、空、言語批判

 釈迦が「我っていうのは五蘊から成るんだよ」と言ったので、五蘊について熱心に研究し始めたのが、小乗仏教といわれる人たちだった。あんまり専門的になりすぎ、学問的になりすぎてしまい、やがて大乗仏教といわれる人たちに批判を食らう。それが『般若心経』であり、「五蘊にまるで実体があるように語ってるけど、そんなもんないよ。なんにもないよ。だから変化や運動だってホントはないものなんだよ。でもだからって仏教が無意味になるわけじゃないよ」と書いている。

 私たちは言葉を見ると、それに実体があると思ってしまう。目の前のパソコンは、私たちの目に届き、脳で処理されたもので本当とはいえないまでも、やはり「パソコン自体」はあるはずだ、という考えである。カントはこれを「物自体」と呼んだ。そして「私」というものにも実体があると考え始める。なにものにも実体はないのに、小乗仏教の連中はこれを細かく分け、そのそれぞれによって何かが形づくられていると考えた。だが釈迦が本当に言いたかったのは、「無我」という以上に、そもそも実体性をもつものなどないということだ。

 

 私たちがこのような勘違いをするに至ったのは、言語に責任がある―――そう考えるのは『中論』の龍樹である。たとえば「太郎は行く」というような文を使ったりするが、私たちはふつうこれをこう解釈する。:

種々の実体があって、各実体は任意に個々の動作を選択する、と。一群の実体と一群の動作がたがいに独立に存在し、任意の実体が任意の動作と随時くみあわされる、と。

空と無我 仏教の言語観 (講談社現代新書)

 「太郎は行く」、だがそれは太郎という実体に対して、行くという動作を当てはめたものではない。「行く太郎」があって、「太郎は行く」と言っているのである。切りはなされた独立の動作としての「行く」などどこにもない。また、「行く太郎」以外に「太郎」はない。「行く」ことと切り離した「太郎」などどこにもない。彼によれば、現象は常に全一なものとなる。

 そうして一切は「空」となる。私たちは勘違いしているだけだということになる。

 

 私たちにはもはや何も言うべきことは残されていない。龍樹も「主張」するのではなく、相手に言われたことに「反論」しただけである。老子のいうような絶対無があるなどともいわない、あるといっては話がおかしくなる。ただ分からない人がいたときは「一切は空だ」とだけ言ってやる。一切の確信をやめろといった、ピュロン懐疑主義と似ているところある。

 

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