第一章 方法の三つの形象Ⅰ
ものを考えるにあたりわれわれは暗闇のなかをひとり手探りで進まなければならないのか。それともその暗闇のなかには道案内がいるのか。また道案内は可能か。
この問いに関わって、スピノザが「方法」について論じているのは『知性改善論』=『知性の改善に関する、並びに知性が事物の真の認識に導かれるための最善の道に関する論文』である。ここでのテーマは、どのようにすれば知性を改善できるのか、どのようにすれば事物の真の認識へと導かれうるか、である。
【無限遡行の問題・道具の形象】
どのようにして、とスピノザは問う。彼がまず指摘したのは、「方法」の探究にあたってまず注意すべき無限遡行の問題だった。すなわち、探求の方法を探求するのだから、その探求の方法も探求されねばならないし、その方法も探求されねばならないので、私たちには探求などできないのではないか―――こういう問題だ。彼はこの無限遡行があってはならないことだとしているが、論駁することはできておらず、ただ拒絶するだけである。そして話はだいたいこう続く。
人間は生得の道具をもって易しいものを作り、だんだんと複雑なものを作れるようになり、難しいこともできるようになった。これと同じように、知性も生得の力でもって、知的道具を作り新しい力を得、さらに難しい課題に取り組むことができる。
実際そうしてきたのだろうと思わせる記述だが、問題には答えていないし、じゃあどうすればよいかというそもそものテーマにも答えていない。なぜスピノザはこんな「もっともらしいが説得力に欠く」話をしているのか。その理由は著者によれば、『不可知なものの優位をちらつかせ、知に向かおうとする人々の意志を殺ぐ』ような相手の口をふさぐためであるという。「方法には方法が必要なのは確かだけど、今までずっと人は積み重ねて来てこうして今があるわけだよ。話続けてもいい? まさか茶化すために言ってるんじゃないだろうし……」というわけで、実は無限遡行の問題についてまず彼が語っていたのは、この口塞ぎだったのである。
だが、ここには既にスピノザ独自の考え方もあらわれている。
それは、生得的に持っている知性というものが最高峰へのぼりつめるために必要な力を十分もっている、という考え方である。実は道具について過去に言及した哲学者ベーコンは、生得的な力を貧弱なものとみなし仕上げられない者には優れた人が指導者として与えてやるべきだと考えていた。しかしスピノザは「外から与える必要はない」と言っている。
とはいえ、実はこの方法観の転回について、スピノザはデカルトから学んでいたらしい。デカルトも同様に、十分な知性について語っているからである。だが一方で、スピノザがデカルトと違ったのは、方法というものが持つ無限遡行の問題に言及したことである。これを踏まえながら、スピノザはどのような「方法」へ至るつもりなのか?
【スピノザの真理観・標識の形象】
真の観念はその対象と異なる或るものであり、それゆえに、ある観念はそれ自体が他の観念の対象となりうる。
観念がその「観念対象」と異なる、と表現しよう。このこと自体は、たとえば「円」と「円の観念」が別のものであることからも明らかである。だが『観念はそれ自体が他の観念の対象になりうる』というと、少し事情が変わって来る。色々の観念と色々の観念対象があるが、観念というのはその観念対象にいつも付き従わねばならないわけではなく、いつだって観念がメタレベルで観念対象がオブジェクトレベルにとどまっていなければならないわけではない。観念それ自体も観念対象になることがある。
というわけで、観念対象となった観念は、形相的観念と呼ばれ区別される。また形相的観念を対象とする観念は想念的観念と呼ばれる。おそろしくややこしい。たとえばここにニンジン🥕があるとする。🥕は実在的な或るものである。🥕を観念対象とする観念があるだろう(ニンジン)。ところでそのニンジンという観念を対象とする観念を形相的観念と呼び、この「ニンジンという観念を対象とする観念」を対象とする観念が想念的観念と呼ばれるのである。
ところで当たり前のことだが、スピノザは指摘する。
- 🥕を知っている人は、🥕の観念も知っているし、その観念の観念も知っているし、またその観念の観念も知っている。そしてこれはずっと続けることができる。言い換えれば、『何かを知っている者は、自分が何かを知っていることを知っている』。何ごとかを知っている人は、知っていることを知る必要はない。つまりその何ごとかを知っているかどうか判断する基準は必要ない。
スピノザはさらに歩を進める。何ごとかを知っているかどうか確かめる必要はない。もし知っていることの正しさをなんらかの標識に求めたなら、その標識の正しさを議論しなければならなくなる。知っていることの確実性の根拠はただ、「いかにして知るに至ったか」ということだけである。すなわち、真理に到達している人は真理に到達していることを知っている。到達していない人には、真理が何たるか知ることができない。だからいくら真理を説明しても伝達できない。そこで「いかにして」そこに辿り着いたか、適切な様式をくぐりぬけたか、が問われる。
真理への到達はほとんど体験とでも呼ぶべきものとして考えられている。
無限遡行の問題に戻ろう。スピノザは論駁できなかったというより、論駁しなかった。説得しようと思わなかったのである。そもそも彼の哲学の中に、論駁とか説得とかいう要素はない。だが当たり前だがこの立場は、議論の場では恐ろしく無力である。
だがスピノザが学んだデカルトは懐疑論者たちに対しても、むしろそういう人たちをも説得できるような、真理を求めた。だがスピノザはその必要を感じなかった。とうてい受け入れることができなかった。それはなぜなのか。