にんじんブログ

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吾輩はニーチェである2

 「なぜ人は自分らしさを求めるのか?」

 

 この問いを吟味するうえでまず確認しなければならないことは、「自分らしさ」とはなんであるのかである。そもそもこの点がわからなければ、人がそれを求めているのかどうかさえわからない。

 そもそも自分らしさというのは、他者の目を意識しているものである。他者がいなければ自分らしさもない(自分/他人は区別される)。自分らしさは、他者との差異であり、他者によっても認識されなければならない(自分らしさは他者との差異であり、他者を標識とする)。だがより一般に考えれば、「自分」というものの範囲は「私」とは限られないのであって、一企業が他社との差別化をはかる場合にも上の問いは成り立ちうるのである。私たちは暗黙のうちに歴史というものを「集団→私」へと収束していくと仮定してかかっていることにも気づく。集団主義の時代は終わり、個人主義を迎え、自分らしさというものが私らしさと同等の意味を持っている。というよりむしろ、この問い自体が個人の自律を重視する個人主義的な思想を社会的な背景としたものだといえる。

  •  社会的背景としての個人主義的考え → 「私」という単位 (背景)
  •  自分らしさ=私らしさ=私と私以外との差異
  •  私以外によっても認識され、また承認されねばならない。

 だからこんなことが問いとして成り立ちうるのは、問うている本人が個人の自律を重んじる価値観を有しているからである。同じ価値観を有しないものがこの問いを聞けば、一体何を気にしているのかと不思議がられることだろう。何が言いたいかというと、「私らしさ」というものを求めるというのはまったく普遍的な現象ではないということだ。承認欲求があるからといって、私らしさを求めているとは限らないのは承認される単位が「私個人」とは限らないからである。もっと一般に考えれば、私らしさの特異さがえがける。

 

 ある個人にとってのそのような単位を〈基礎単位〉と呼ぶことにしよう。

 ここまでの流れで確かなことに思われるのは、その個人は基礎単位への所属をまず第一に求めるであろうということだ。この〈基礎単位〉が私自身である場合、事情は複雑であるが、その私が実際の私自身であるとは限らない。これと同様に、〈基礎単位〉が家やグループなどの一定の集団である場合、その集団が””ありのまま””のものであるとは限らない。〈基礎単位〉はその個人によって、というよりも、基礎単位を為す集団の総意によってその姿を加工されている、理想的なものである。

 私たちはここに、「証明欲求」と「承認欲求」と呼ばれてきたふたつを見つける。

  •  個人が〈基礎単位〉に所属することを求める「承認欲求」(所属していると認められる)
  •  個人が〈基礎単位〉に所属していることを証明する「証明欲求」(所属者として””ふさわしい””)

 そしてこのような単位は多種多様なため、「アイデンティティ」という概念と接近してくる。これが「私らしさ」となると、理想自己との一致を求め、理想自己として振る舞うことを要求される。理想は現実と異なっているのが普通だから、基本的に、一生満足することはないし、他者一般が相手だから確認するのも一苦労だし、あるいはできない。満足する方法は「まずはここまで」と線を引いて、進歩とともにゴールラインの引き上げを自動的にしないことだろうが、そうだとしても「いつまで頑張ればいいの?」という次の苦境が待っている。

 私たちの多くは個人主義的な価値観を持っているから、「認められようとする」ことが一つの「選択」のように見え、「個人が」という部分が非常に際立って見えるかもしれない。しかしアイデンティティを形成するうえでのステレオタイプは意識にのぼった時点で既に醸成されている。「私」というものに対するイメージも、その一つの例に過ぎない、とも言える。

 集団主義は集団を重視しすぎ、個人主義は私を重視しすぎたのかもしれない。集団主義は「私らしさ」を軽んじ、個人主義は「私らしさ」しか基本的に見ようとしなかった、いや、見ようとはしていないのではないか。

 

「人はなぜ私らしさを求めるのか? ……それ以外にも求めるが。哲学者らしいかとか、画家らしいかとか、大人らしいかどうかとか、男らしいかどうかとか。」

 

 しかし結局個人の問題ではないか? だって「画家としてこうするのがよい」+「父親としてはこうしたほうがよい」…といったような様々なことを考えて、結局私がどうすべきかを選択するのだから。

 たぶん、その点が悩みの根っこだろうと思う。にんじんが思うに、このような倫理的決定が行われるのはまったく正しいにしても、それは「決定」と呼びうるほど意識的なものであることはほとんどないし、というかむしろ、基本的にその「決定」は自動的に行われる。こうしてみると「求める」という語もミスリーディングだろう。

 

  •  環境が私に取り込まれ、その情報をもとに私が判断する。
  •  色々な環境をある関数gを以て「私」に取り込み、「私」がその情報と自分の内部の状況を変数とする関数fを以て、外部に表出する。その計算は、もちろん「私」が行う。
  •  Y1,… という環境因子は私に取り込まれる際にg(Y1),…という因子になり、X1,…という内部因子を考慮した関数fによってf(X1,…,g(Y1),g(y2), …)として表現される

 そもそも内部/外部という区切りが、病根にあるのかもしれない。もし人の行動というものを関数で表すのであれば、単に f(X1,…,Xn,…) という風になるはずで、「n番目からは『外部』因子なんでよろしく!」と勝手におのおのが呼んでいるにすぎない。それこそが外部であり、選択の外にあり、私ではないものとされる。だが一体、なぜそれが『内部』と呼ばれたのか。

 私たちが「こうしよう」と考え、行動の方向性をつけることは変数の一個である。だが重要な一個である。だが行動を「決定」するために不可欠な要素でもなければ、確実な要素でもない。

 

 

 

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