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にんじんと読む「スピノザの方法」🥕 第二章

第二章 方法の三つの形象Ⅱ

〈前回の復習〉

 何ごとかを知っているということの正しさは、まさにその何ごとかを知っているということだけであって、その正しさをチェックする標識は無用である。真理に到達している人は真理に到達していることを知っている。到達していない人には、真理が何たるか知ることができない。だからいくら真理を説明しても伝達できない(スピノザの真理観)。

 本当に知っているのかと問うのではなく、いかにして知るかを問おう。だが注意しなければならないのは、ここで問われている「いかにして」という道は、真理にいたる道ではない。もし海こえ山こえ真理にたどりつくそうした道のことを行っているのなら、その道に到達するための別の道が必要になり、無限遡行の問題に再び戻ることになってしまう。ここで問われている道というのは、『諸観念がひとつひとつ獲得されていくことの連なりとして描かれる線そのもの』(スピノザの方法)である。知っているというのは、その道のうえで得られるのであって、道の先にあるわけではない。つまりスピノザにおいては、方法そのものと知っているという認識が切りはなされているわけではないのである。

 しかしそうなると、方法について考えるというのはまさに知ることそのものについて考えることになる。普通、「いかにして」と問うのはそれをするために指導的・制御的役割を期待するからであるが、スピノザの方法においては、知ることの前に方法などは存在せず、当然、指導もできなければ制御もできない。そしてまた当然、この方法は知ったあとにそれを改変するようなものでもない。前にも後にも使えない。これのどこが「方法」なのか? —――このことを指摘したのはジョアキムである(方法の逆説)。

 それにもっと言えば、そのような方法について語る(方法論について語る)こと自体に無理があるのではないか。真理そのものについて語る前に方法を語るということは、その方法論を紡ぎ出す推論を基礎づける方法論が必要とされてしまうのではないか。方法論は方法論である限りにおいて、無限遡行の問題を絶対に解決できないのではないか(方法論の逆説)。

 

 ヴィオレットは『知性改善論』に関して著した論文のなかで、方法を「創出的方法」と「創出された方法」のふたつに区別している。そもそも知識というものにも種類があって、ひとつはあらかじめ準備することで手に入れられる知識であり、ひとつは、漸進的にのみ手に入れられる知識である。前者の場合は道のりを自分以外の人に示してもらえばよく、後者の場合はその知識をそもそも先取りしておくことができず、その道のりの成立と知識の成立とは同時に起こる。ひとつめの道のりを「創出された方法」と呼び、ふたつめの道のりを「創出的方法」と呼ぶ。

 ヴィオレットはスピノザの誤りについて次のように結論する。

約言すればその誤りとは、創出的方法と創出された方法とを混同し、後者に関して正しいと言えることが前者に関しても正しいと考えてしまったことにある。より正確に言えばスピノザ哲学は創出的方法に属するものであり、この種の方法を用いることによってのみ開花しうる哲学であるにもかかわらず、スピノザはみずからの哲学に対してイントロダクションを書き記すことができると、つまり創出された方法のスタイルで書かれた「方法序説」をこの哲学の前に置くことができると考えたのである

スピノザの方法

 「方法論」というのは、誰かがたどった道を後の人に教えてやることである。だが真理を探究しようとしている以上、真理がなにかなんてわかっていないわけで、その道のりを描き出してやろうとする創出された方法の設立は絶対に失敗する。スピノザは「生得の道具」と言っていたときは、私たちは誰かから「思考術」なんてものを教わらなくても自らの足で歩いて行けるはず、創出的方法で探求していけると考えていたはずなのだが、二つの方法を明確に区別していなかったために、序説を書き進めてしまった。

実際に観念を獲得していく活動である哲学体系に先立ち、その方法だけを説明することはできない。にもかかわらず『知性改善論』は、方法の何たるかを観念の獲得に先立って説明しようとしている。繰り返せば、これこそが、創出的方法でしか言えないことを創出された方法によって言おうとするという事態にほかならなかった。

スピノザの方法

 ヴィオレットの方法の二区別は見事に方法論の逆説を説明した。だが、方法の逆説については説明していない。スピノザが失敗を運命づけられていたのはまあいいとして、方法の逆説が言っているのは、方法は精神の指導と制御という役割を果たすことができないということだった。ヴィオレットが言うところでは、方法の逆説というのも二つの方法概念の混同であって、指導と制御の役割は「創出された方法」に属し、スピノザの方法は「創出的方法」に属するのだから、ふたつを繋ぎ合わせるなどどだい無理な話だったのだという。

 創出的方法というのは、「方法」と名はついているが、方法ではまったくない。スピノザも何ごとかがわかるようになる道筋をハイキングコースのようにお気楽なものであることは否定したが、方法から「精神の指導と制御」という役割をはぎ取ろうとはしなかった。言い換えれば、泳げないやつを全員海に叩き落そうとはしなかった。海に入ってもらう必要はあるにしても、「ちょっとまあその前に言っておくことがあってだな」と言いたかったのだ。