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にんじんと読む「スピノザの方法」🥕 第六章

第六章 逆説の解決

〈これまでの復習〉

 精神は道を進みながら何ごとかを知り、知ったことが次の知ることを手助けする。何ごとかを知っているかどうかを問う必要はなく、ただその道をいかにして見つけいかにして歩めばいいかを問えばよい。だがこのような方法は道そのものであるのだから、地図のように事前に準備することはできない。ここで生じる問題は、「方法」として果たすべき「精神の指導と制御」という役割を果たせないことであり、泳げない者をとにかく海に叩き落すしかないということだった(方法の逆説)。ヴィオレットによって解決されたかに見えた「方法論の逆説」は、スピノザの方法に「精神の指導と制御」を導入することを拒んでしまう。

 さて、スピノザの方法は創出的方法であるから、手さぐりに進んでいくような道ならぬ道だった。つまりこの方法は方法の適用と区別できない。であるとすると、方法について論じるには、同時にその適用も論じなければならないだろう。私たちが得ようとしている「方法」は、「観念」に対して適用される観念獲得の道である。だがスピノザは「観念」ということによって何を言おうとしていたのだろう。

 『知性改造論』の次の一節を見よう。

このことから、方法とは反省的認識あるいは観念以外の何ものでもないということが帰結される。そしてはじめに観念がなくては観念の観念がないから、はじめに観念がなければ方法はありえない。このゆえに、与えられた真の観念の規範に従って精神がどのように導かれるべきかを示す方法が正しい方法であることになる。なおまたふたつの観念の間にある関係は、それらの観念の形相的本質の間にある関係と同一であるから、これからして最高完全者の観念の反省的認識が他の諸観念の反省的認識よりすぐれているということが生ずる。言い換えれば、もっとも完全な方法は、与えられた最高完全者の観念の規範にしたがってどのように精神が導かれるべきかを示す方法であることになる。

スピノザの方法

 まず観念同士の関係と、それら二つの観念の観念対象(形相的本質)の間にある関係について考えよう。スピノザ本人による注釈によれば、ここでの「関係」というのは、他方から生じ、あるいは他方を生ずるようなものである。つまり「連結」について話しているわけである。観念の連結は、観念から観念への発生連鎖のことだ。スピノザは観念の原因は観念のみだとし、事物の世界と観念の世界を切り離す。だがそれでもなお、その連結は、観念対象の連結と「同一である」と言われる。

 観念の世界と事物の世界は独立ではあるが、無関係ではない。ではどのような「関係」があるのか。それは対応である。たとえばA→B→Cという事物の連なりがあるなら、観念もA→B→Cと連なる。そして連結を支配する因果法則は事物においても観念においても同一である。……であるとするなら、法則の同一性が言われる以上、その法則の適用される対象群の間にズレがあってはならない。対象は観念と対応する。

 するとこういうことになる。「事物と観念は存在としてはまったく同一である」のだが、「同じひとつの存在が別の仕方で現れたもの」である

 いろいろな「ひとつの存在」があるだろうが、もっともすぐれているのはその存在だけですべてを現わさせるような存在である。そこに「最高完全者」が登場する。

 あらゆる観念は最高完全者の観念から導き出されねばならない。そこから溢れ出す観念の連結それ自体が、精神を「指導・制御」し、みずからで連結を導くことでみずからに固有の知性の諸法則に出会う。すなわち精神は最初から方法論をその身に宿している。方法論は適用に先だって存在せず、方法と同時に方法論が現れる。「方法という名の道を歩くことで、精神はいかなる方法が用いられるべきかを学び、それをみずからに示す」。

【チェック】

 この考え方はのちにライプニッツによって平行論と命名された。

 神は無限に多くの属性を有する唯一の実体である。存在するのはこれだけであり、それがぐねぐねと蠢いている。その蠢きが延長の属性において考えられれば「事物」、思惟の属性において考えられれば「観念」と言われる。

 というわけで、本当にそうなら一刻もはやく「最高完全者」を見つけなければならない。ならどうするか。そもそも「最高完全者」は、ともかくなんでもあるのだから、適当なものを手に取ってそこから出発すればいいのではないか。一旦、最高完全者にたどりついたらこっちのもので、あとはそこから流れ出していく真理の流れをたどっていけばよい。

 では適当に手に取ってみよう。それはなにか。定義が必要だ、というより、本当に適当に始めたのでは手間がかかってしょうがないから、定義規則のはっきりしているものから「最高完全者」を目指したい。私たちは既に、曖昧ながらも「真なる」ものを持っている。私たちは太陽についてすっかり説明できるわけではないが、太陽のなんたるかを知っている。

 

「与えられた真の観念」から出発するとは、われわれの所与の諸条件のなかにある真理性を手がかりにするということである。たしかにわれわれは最初の時点では真の認識(十全な観念)を手にしていない。しかし、所与の状態でわれわれに与えられている観念のなかにもなんらかの真理性が見いだせる。

スピノザの方法

 

 とはいえ、私たちにはその真理性がどこにあるのかわからない。だから太陽からはじめることはちょっとできそうにない。スピノザが頼りにしたのは「純粋精神から生ずる観念」、たとえば幾何学的図形である。これならばどこが真理でどこが真理でないのか明白である! たとえば球というのは半円が中心のまわりを回転して生ずる図形である(発生的定義)。だが、自然における球はどれも半円が回転してできたわけではないのはわれわれにとって当たり前である。球の定義には「半円」という球とはある意味で関係のないものが紛れ込んでいる。だが、私たちはそれが理解できる。

 スピノザ哲学は定義に重きをおく。特に発生的定義に重きをおく。というのも、「連結」に興味があるスピノザ哲学においては、それがどのように生じたかを記述する発生的定義こそふさわしいからである。もっといえば、真の認識=十全な観念の獲得=完全な定義、である。出発点にある発生的定義は、精神を観念の連結のなかにおいてくれる。

 だがスピノザには不安があった。「純粋精神から生ずる観念」からはじめるのはいい。それはどこが真理なのかはっきりしている。だが逆にいえば、真理でないものを頼りにして進んでいくことになる。半円の回転をして球になった球などどこにもないし、いわれている半円の回転というのはなんで回転してるのか原因がいまいちわからない虚構の、仮想のものである。虚構だとわかっているだけましだが、わかっていること以外に「虚構」と「虚偽」を区別する手段はない。ちょっと危うくはないか。