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にんじんと読む「スピノザの方法」🥕 第七章

第七章 スピノザの方法

 『エチカ』における定義は、発生的定義(=対象の最近原因を含むことでその対象の発生を描き出す)とは異なり、名目上のものとなっている。たとえば『自己原因とは、その本質が存在を含むもの、あるいはその本性が存在するとしか考えられえないもの、と解する』という風に、「~と解する」と結ばれる。あくまでスピノザ自身が決めたものであり、恣意的なものである。一方、発生的定義は実在と結びついており、勝手気ままには決められない。

 だが名目的定義を利用して、ただ論理的操作を行う「証明」には違和感が残るのではないか。スピノザの定義に関してはさまざまな議論が繰り返されてきたが、これをスピノザの戦略だとする見方がある。スピノザの定義は、定義された段階ではその対象の実在を主張しているわけでもなければ、その定義がまさに本質を捉えているのだと主張しているわけでもない。冒頭の定義の時点ではそもそも「真理」という概念さえ登場してはおらず、「定義の時点ではその実在はいわば宙づりにされており,定理 7 の証明以降の議論をまってはじめて実体の実在がその本質そのものであることが示される」のであり、「実体の実在が語られてはじめて,『エチカ』において「真理」概念が登場する」のである(CiNii 論文 -  スピノザ『エチカ』における定義の問題 : 実体の定義と真理概念を中心に)。

 そもそもスピノザの定義は、被定義項の語義の領域を定めるものであり、この領域の定めは『エチカ』の読者層として想定されていたデカルト主義者たちも同意するものである。そのようにふわっとした区画割りをしてもスピノザのいう実体の本質が導出される、と言いたいわけだ。

【定義】

  1.  自己原因とは、その本質が存在を含むもの、あるいはその本性が存在するとしか考えられないもの、と解する。
  2.  同じ本性の他のものによって限定されうるものは自己の類において有言であると言われる。
  3.  実体とは、それ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの、言い換えれば、その概念を形成するのに他のものの概念を必要としないもの、と解する。
  4.  属性とは、知性が実体についてその本質を構成していると知覚するもの、と解する。
  5.  様態とは、実体の変状、すなわち、他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられるもの、と解する
  6.  神とは、絶対に無限なる実有、言い換えれば、各々が永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性からなっている実体、と解する。
  7.  自己の本性の必然性のみによって存在し、自己自身のみによって行動に決定されるものは自由であると言われる。
  8.  永遠性とは、存在が永遠なるものの定義のみから必然的に考えられるかぎり、存在そのもののことと解する。

 にんじんなりにまとめると、

 この定義の羅列は別に「実体」とかじゃなくても「♨」とか「☀」とかでも問題はないはずだろう(用語を定めるだけなので、記号自体はなんでもよい)。で、ともかく議論を進めていくと「♨」が実在することが証明される。それで最後には「あら、♨というのはあなたがいう実体のことだったんですか」となって、なるほど実体というのは実在するのだなと相手も納得する、……みたいなことだと思われる。とはいえ、

 次に導入される「公理」は、「☀」や「♨」がまともに機能するための前提を明文化したものである。

【定理】

  1.  実体は本性上その変状に先立つ
  2.  異なった属性を有するふたつの実体は相互に共通点を有しない
  3.  相互に共通点を有しない物は、その一が他の原因たることができない
  4.  異なるふたつあるいは多数の物は実体の属性の相違によってか、そうでなければその変状の相違によって互いに区別される
  5.  自然のうちには同一本性あるいは同一属性を有するふたつあるいは多数の実体は存在しえない
  6.  ひとつの実体は他の実体から産出されることができない
  7.  実体の本性には存在することが属する
  8.  すべての実体は必然的に無限である
  9.  およそ物がより多くの実在性あるいは存在をもつに従って、それだけ多くの属性がその物に帰せられる
  10.  実体の各属性はそれ自身によって考えられなければならぬ
  11.  神あるいは、各々が永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体は、必然的に存在する

 定理4までは定義の論理的操作によって成立する。そして定理5がそれまでの結果の総動員によって成立する。これが対象とするのは「ひとつの属性を有する実体」であり、「属性Aに対して、存在するとすればただひとつの実体しか存在しない」ことを言っている。というのも、ふたつの実体が共通属性を有することはないというのが定理5であるから。このことからひとつの実体は他から産出されず、存在することは自己原因であり、しかも無限であることが論証される。

 そして定理9からは趣が異なる。「定理7」において存在することは実体の本性だとされながら、「定理11」において実体として定義されている神がまた存在すると改めて証明されている。この点については、定理8までの論証がいつも、「ひとつの属性を有する実体の存在」を仮定してきたことを考慮に入れなければならない。実際、定理7が定理6から証明されている。この過程を証明してしまうのが定理11の役目である。

 定理11において辿り着いた神の存在によって、定理8までの仮定つきの論証は確定し、その後の『エチカ』は神の観念から流れ出るに任せる。