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にんじんと読む「肉食の哲学(ドミニク・レステル)」🥕

倫理的ベジタリアン

 この本の主要な「敵」は、倫理的ベジタリアンである。ベジタリアンとは植物だけを食べることを好む者のことであるが、好む理由はさまざまである。たとえば肉食をしないことが健康にとってよいという理由でベジタリアンになるものもいれば、肉の味をそもそも好まないからベジタリアンだというひともいるし、あるいは肉類の摂取を躊躇してしまうトラウマ的経験からベジタリアンだという人もいるだろう。そして今現在増加中なのが、「倫理的ベジタリアンつまり、肉食のような行為はモラルに反し、短期的にも長期的にもよからぬ、そして受け容れがたい結果をもたらすと考える者である。彼らが肉食を拒絶するのは、肉を食うことが生物を苦しめるからである。

 彼らが持ち出す典型的な理屈は、動物もまた利益不利益の主体だというものだ。彼らは知性をもつ存在であるがゆえに、殺されない権利を持つ。あるいは、たんなる資産やモノとして扱われるべきではない(ヒトがそうであるのと同様に!)。倫理的ベジタリアンは過激になると、牛乳や卵などの動物由来の食品や、動物由来のあらゆる製品は禁止されるべきだと言う。彼らの名は「ビーガン」である。

 

過去のベジタリアンたちと動機

 さて、歴史的には古代ギリシャピタゴラスベジタリアンであった。その理由は、生き物というのは輪廻転生しており生物というのは元は人間だったものたちであるから、それを食べることはカニバリズム(人肉食)にあたるからである。したがってこの菜食主義は宗教的実践に根差す。

 次にプルタルコスだ。彼は殺され解体された動物を連想しおぞましかったので、肉食がいやになった。そしてまた、肉食はきっと人を攻撃的にするものだと信じた。したがってここにおいて、菜食主義は宗教的であるよりはむしろ心理学的趣きが出てくる。肉食がおぞましいとする考え方は、マニ教などの宗教でも見られる。あるいはレオナルド・ダ・ヴィンチ、ヤーコプ・ベーメも肉食を拒絶した。次にデカルトの時代、彼と対立したピエール・ガッサンディは動物機械論を激しく攻撃し、肉食の必要性に異議を唱えた。人間の歯並びは草食動物に近く、また素手で動物を殺すことが困難であるからそもそも肉食は性に合っていないはずだということである―――ところでヒトラーもまたベジタリアンであり、彼の影響のせいか、菜食主義両方が人を穏やかにし平和を奨励するといった考え方は消滅した。

 

「なんで植物は食べていいんだ?」

菜食主義の思想を検討するにあたって、哲学者ジョン・ローレンス・ヒルが1996年に書いた『菜食主義の事例――小さな惑星のための哲学』を取り上げよう。彼にはベジタリアンの論理の根本的性格が表れている。つまり、「ベジタリアンの態度はつねに、どこまでも無償で優れたものとして提示されてきたということ」である。倫理的ベジタリアンは、生物間の調和というものは倫理的調和以外にありえないと確信している。だがちょっと待て。ライオンはヌーを食べるが、ライオンはどうしたらいい?

 よく指摘されることではあるが、ベジタリアンベジタリアンであるがゆえに、植物はモリモリ食う。だがちょっと待て。植物はいいのか? ベジタリアンに向かってネット民が言うお決まりのセリフだ。ベジタリアンは生物というものに階層というものを確実に持っていて、あるラインより上は関心を払うが、あるラインより下の生物は完璧に道具にする。つまり動物と、植物だ。彼らは植物をモリモリ食うことは植物を苦しめることではないと主張する。とはいえ、植物は「死ぬ」生き物である。なぜ苦しめることではないと言い切れるのか。J・B・S・ホールデンは「ベジタリアンとは自分が食べるニンジンの叫びが聞こえない者だ」と定義した。つまり「食われる植物は苦しまず、また自身の利益不利益というものはないと無邪気に信じているが、その思い込みは考えているほど合理的でも経験主義的でもない」ということだ。植物がある種の感覚を持っているという研究はいろいろある。利益不利益ももちろんある。彼らはたしかに知性をもち、生きている。

 倫理的ベジタリアンたちの生命の階層構造はどこにでも顔を出す。だがそこにあるのははっきりとしたラインというよりも「関与の度合い」というような、グラデーションのあるものだ。たとえば万引きは悪いことだが、銀行を襲うよりはましだ、というような。だが殊に話が植物と動物になると完璧にラインが引かれる。このピラミッドはひとつの確固たるラインと、グラデーションから成り立つ。ところで先ほどの「ライオンはどうすればいいのか?」という問いについてだが、過激なベジタリアンはたとえば狐を草食にしようとする。おかしな話だが、ベジタリアンヒューマニストは似ている。ヒューマニストというのはヒトと動物の間にある決定的な差異を認めるもので、動物を道具化することはまったく誤っていないと考える。ベジタリアンは何をしてもよいとはいわないが、狐を草食動物にしようとするし、そうでなくともヒトを特例とする。ヒトは肉食であるという性格を持った動物の一種なのだが、捕食という行動を引き受けることなく『他の雑食動物とは違います』という態度をとるのである。すなわち、ヒトこそは「唯一の倫理的生物」であり、「動物の生体改良権を行使できるまでに他の動物と区別されることになる」。彼らは『動物はみんな横並び』と主張する一方で、人間の特権的身分を復活させようとする矛盾をはらんでいるのだ。ベジタリアンの望みは、ヒトが動物性から完全に脱することなのである。

 ベジタリアンはお気楽だから、「世界においてヒトが例外となり、他の生物を殺すことも害することもなく完全に自給自足的な方法で生きられると信じ」ている。これがお気楽なのは、「生物のあらゆる力学において本来死や苦しみが持つ役割を拒んでいる」からだ。つまり、『君たちがベジタリアンになれたのも先祖が食う・食われるの関係にいたからだけど、それについてはどう思う?』ということである。まさか先祖を悪い奴だと断罪するつもりだろうか。

 ベジタリアンたちは残酷さを避けようとする。動物が苦しんでいるのを見たくない。だが彼らの間違いは「苦しめること」と「殺すこと」を同一視することにある。動物の苦しみを最小限にしてやりたいと思うのは正当で倫理的な要求だが、殺すことの絶対的な拒否は正当でも倫理的でもない。生き物はそうやって生きてきたのだ! ———この理屈に、ベジタリアンが怒るのは目に見えているのだが。とはいえ、彼らの大好きな農業だって自然破壊の一部なのだ。どうしてもやりたければ採集だけして生きるがいいが、人口は激減し、激減してもなお常に飢餓状態に置かれるだろう。

 ベジタリアンはいい考えを思いつく―――問題は動物を殺すことなのだから、動物を殺さずに肉を手に入れればいいじゃないか! この考えは馬鹿げているように見えるかもしれないが、蛙肉ステーキの製造には既に成功している。安心してください、実験に使った蛙は拾って来てブチ殺したものではなく、実験室でその部位だけを作り出したものだ。培養された非動物肉は「犠牲なき肉」である。

 苦痛も残酷さもない世界というユートピアは、(1)苦しみはつねに否定すべき、(2)ユートピアは動物にとってよい、という二つの根拠に依存してユートピアになっている。ところがこの二つの根拠は誤っている。実際、生物にとって苦しみは他の利害に比べて大したことはないし、ポジティブな面もある。どういうことなのか。本では次のように説明されている。

苦痛のおかげで生物はただ存在するのではなく、自分の存在を認めることができるのだ。肉体的に苦しむことのない者は、世界の中でつねに危険な状態に置かれることになる。なぜなら彼には、自身の限界点に気づかせてくれるどんな精神生理学的指標もないからだ。たとえば焼けるときの痛みを感じることは、気づかないまま重大な火傷を負うことの防止になるだろう。

存在の苦痛と残酷さが持つもうひとつの成果(略…)は、血と辛苦に塗れた進化主義の歴史から愛他心や共感のようなすばらしい感情が発生したということである。

肉食の哲学

 私たちの苦しみが大したことないのは、登山をする者を見ればあきらかだ。あんな苦しい思いをして山に登って、いったい何が楽しいのやらそれを趣味としていない人には見当もつかない。そしてこのことはヒト以外の動物にとっても同じでないと考える理由はなにかあるだろうか。

 

倒錯した動物「愛」

 ベジタリアンが思い描くユートピアでは残酷さが善意とお誂えのルールによって消し去ることができるとされている。ここで哲学者クレマン・ロッセ(Clement Rosset:邦訳はなし)に登場してもらおう。彼曰く、〈真実の残酷さ、現実の荒々しさを緩和しようとする者は皆、どんな立派な動機、どんな優れた企ての価値をも結果的には必ず失墜させる〉。

 彼は「残酷さの倫理」をシンプルな2法則でまとめる。①十全なる現実の原則、②不確かさの原則。前者について、まず現実は現実自身でしか説明されない。当たり前のようだが、ほとんどの哲学者はこの事を拒否する。人は現実の残酷さという壁にぶつかり、そして次にどうしようもなさという壁にぶつかる。その心理的不能感に、人は激しく抵抗するというわけだ。そして二つ目、人間は不確かさに耐えられない。だから確かだと感じられる事実に魅惑される―――そして実際、残酷さを否定するラディカルなベジタリアンたちは、「現実の残酷さを引き受けることの拒否」「信じるべき原理の徹底的探究」という特徴を持つ。

 ベジタリアンは勘違いしているが、ベジタリアン以外が殺戮を推奨しているわけではない。捕食は生物の、まさに日常茶飯事のことであるが、それを堕落と捉える彼らは、「倫理的」ということを「自然に反してふるまう」ことと似たようなものだと考えている。「合法的にふるまうことはかならずしも優しくふるまうことではなく、あらゆる暴力が本質的に合法的でないわけではない。暴力は子どもに対するふるまいとして規範的方法ではないが、暴力という手段を禁じられたり、あらゆる暴力から根本的に間もあれている子どもが適切に発達し、バランスのとれた創造的人間になるだろうか。他の動物に対する暴力を欠いた生はたぶんより倫理的かもしれないが……、真に生きるに値する生を成すものに比べ、何か本質的なものを欠いている」(p.79)。

 倫理的ベジタリアンは自然を憎み、理想の自然を好む者である。肉食の嫌悪は根源的には動物に対する嫌悪である。そしてその動物にはヒトももちろん含まれており、他に対して苦痛を与える人間一切を嫌っている。だがこのように言うと、やはり彼らは反発するものだ。だが、勘違いしないでほしい。隣のやつを殴れと言っているわけではない。「ただ苦痛は動物の本性の一部として内在しているということだ」。

 ベジタリアンであることを徹底する者は、遺伝子組み換え食品しか摂取しない覚悟を持つだろうし、それによって遂にはヒトを動物の影響下から抜け出させるだろう。そしてヒトを生物学的に変化させ、ポスト人類を目指すのだ。さらには全ての肉食動物がベジタリアンとなり、捕食者が誰もいない安定した生態系を探すだろう。それがどうしても難しく、かつ、また彼らを滅ぼす方法があるのなら、「倫理的帰結として」その根絶を行わなければならない。ベジタリアンの動物愛は倒錯しており、彼らは動物嫌悪を動物への愛によって正当化する。その意味で、虐待する母親のようなものだ。「その誤った愛は、愛していると主張するものの死あるいは去勢を望み、無害で頼りないぬいぐるみへと取り換えたいのだ」(p.82)。

 肉食はヒトの本来的なあり方ではないといくら主張しようが、大多数のひとは『いきなり!ステーキ』に入ることを別にためらわないだろう。ベジタリアンは「生のあり方や生き物のふるまいを上から目線で倫理的に評価する」「鼻持ちならないほど傲慢」な者である。なにしろ捕食は駄目なのだから。そんなことができる生物はいまだかつていなかった。ベジタリアンは植物になりたがっているのだろうか? おかしなことに、そんなベジタリアンは誰一人存在しないのである。彼らは植物のあらゆる活力を否定して道具化し、肉食者を非難する。

 

 

政治的ベジタリアン

ここまでの議論は『じゃあ植物はどうやねん』という批判を深めて来たものだが、そのツッコミをする非ベジタリアンの人たちの多くは、自分たちが肉食をすることをまったく正当化できていない。「人間は倫理的なベジタリアンになるのではなく、むしろ倫理的な肉食者になるべきなのだ」。そのために、肉食を擁護していこう。

 「肉食者の倫理はまずは相互性の倫理というかたち」を採る。それはエネルギーの循環であり、各々の動物は各々の動物の生存の条件であり、「捕食の普遍化はこの調和のひとつの原則である」。つまり「依存の倫理」でもある。相互依存こそ、倫理のなす根本的テーマなのである。捕食するというのは依存契約であり、自らもそのシステムの内側にいると認めることであり、ヒトの動物性を認めること、ヒトが例外的身分を享受しているという確信を拒絶することだ。このことはむしろ、ベジタリアンよりもよっぽど謙虚な態度だろう。人々は「依存」という言葉にひどくネガティブなイメージを持っているが、哲学者ガブリエル・マルセルは逆に「自律」という考えを批判している。「濃密な生とは対立に身を晒し、受け容れなければならないものだ。危険に立ち入り苦しむことの拒絶、危険を引き入れ苦しめることの拒絶は、端的に言って生きることとは矛盾するのである」(p.99)。

 相互依存のなかにいる以上、どうしても避けねばならないことがふたつある。①相互依存を避けようとすること、②システムを乱用すること。前者を犯したのが倫理的ベジタリアンであり、後者を犯したのが「現代西洋社会の超肉食者」たちだ。

 この倫理において押し出されるのは私たちの動物性を受け入れることであり、捕食は自らが動物であることを受け入れることである。だが現在の豊かな国々の肉食はもはや動物へと追悼や動物との一体化などという側面はないではないか。ここでは倫理的ベジタリアンではなく、政治的ベジタリアンに登場してもらおう。政治的ベジタリアンは、「巨大な人口を持つ集団が恒常的な肉食をおこなうのは破滅的に他ならず、端的に言って常軌を逸している」と説明する。工業化された畜産を中止するためにこそわれわれは肉食をやめるのだ―――これは倫理的ベジタリアンとは別種の立場であり、考慮に値する。とはいえ、肉食を全廃までする必要はない。削減を目指して闘うという手もあるだろう。

 そこで著者が提案するのは、こんな道である。

それは肉食の抑制と儀礼化だ。別の謂い方をすれば、毎回の肉食を儀式さらには追悼と見做し、適切に扱われた動物由来の肉のみを受け容れ、肉の摂取をこうした機会に限定することである。

肉食の哲学