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にんじんと読む「肉食の哲学(ドミニク・レステル)」🥕 ③

菜食主義の思想を検討するにあたって、哲学者ジョン・ローレンス・ヒルが1996年に書いた『菜食主義の事例――小さな惑星のための哲学』を取り上げよう。彼にはベジタリアンの論理の根本的性格が表れている。つまり、「ベジタリアンの態度はつねに、どこまでも無償で優れたものとして提示されてきたということ」である。倫理的ベジタリアンは、生物間の調和というものは倫理的調和以外にありえないと確信している。だがちょっと待て。ライオンはヌーを食べるが、ライオンはどうしたらいい?

 よく指摘されることではあるが、ベジタリアンベジタリアンであるがゆえに、植物はモリモリ食う。だがちょっと待て。植物はいいのか? ベジタリアンに向かってネット民が言うお決まりのセリフだ。ベジタリアンは生物というものに階層というものを確実に持っていて、あるラインより上は関心を払うが、あるラインより下の生物は完璧に道具にする。つまり動物と、植物だ。彼らは植物をモリモリ食うことは植物を苦しめることではないと主張する。とはいえ、植物は「死ぬ」生き物である。なぜ苦しめることではないと言い切れるのか。J・B・S・ホールデンは「ベジタリアンとは自分が食べるニンジンの叫びが聞こえない者だ」と定義した。つまり「食われる植物は苦しまず、また自身の利益不利益というものはないと無邪気に信じているが、その思い込みは考えているほど合理的でも経験主義的でもない」ということだ。植物がある種の感覚を持っているという研究はいろいろある。利益不利益ももちろんある。彼らはたしかに知性をもち、生きている。

 倫理的ベジタリアンたちの生命の階層構造はどこにでも顔を出す。だがそこにあるのははっきりとしたラインというよりも「関与の度合い」というような、グラデーションのあるものだ。たとえば万引きは悪いことだが、銀行を襲うよりはましだ、というような。だが殊に話が植物と動物になると完璧にラインが引かれる。このピラミッドはひとつの確固たるラインと、グラデーションから成り立つ。ところで先ほどの「ライオンはどうすればいいのか?」という問いについてだが、過激なベジタリアンはたとえば狐を草食にしようとする。おかしな話だが、ベジタリアンヒューマニストは似ている。ヒューマニストというのはヒトと動物の間にある決定的な差異を認めるもので、動物を道具化することはまったく誤っていないと考える。ベジタリアンは何をしてもよいとはいわないが、狐を草食動物にしようとするし、そうでなくともヒトを特例とする。ヒトは肉食であるという性格を持った動物の一種なのだが、捕食という行動を引き受けることなく『他の雑食動物とは違います』という態度をとるのである。すなわち、ヒトこそは「唯一の倫理的生物」であり、「動物の生体改良権を行使できるまでに他の動物と区別されることになる」。彼らは『動物はみんな横並び』と主張する一方で、人間の特権的身分を復活させようとする矛盾をはらんでいるのだ。ベジタリアンの望みは、ヒトが動物性から完全に脱することなのである。

 ベジタリアンはお気楽だから、「世界においてヒトが例外となり、他の生物を殺すことも害することもなく完全に自給自足的な方法で生きられると信じ」ている。これがお気楽なのは、「生物のあらゆる力学において本来死や苦しみが持つ役割を拒んでいる」からだ。つまり、『君たちがベジタリアンになれたのも先祖が食う・食われるの関係にいたからだけど、それについてはどう思う?』ということである。まさか先祖を悪い奴だと断罪するつもりだろうか。

 ベジタリアンたちは残酷さを避けようとする。動物が苦しんでいるのを見たくない。だが彼らの間違いは「苦しめること」と「殺すこと」を同一視することにある。動物の苦しみを最小限にしてやりたいと思うのは正当で倫理的な要求だが、殺すことの絶対的な拒否は正当でも倫理的でもない。生き物はそうやって生きてきたのだ! ———この理屈に、ベジタリアンが怒るのは目に見えているのだが。とはいえ、彼らの大好きな農業だって自然破壊の一部なのだ。どうしてもやりたければ採集だけして生きるがいいが、人口は激減し、激減してもなお常に飢餓状態に置かれるだろう。

 ベジタリアンはいい考えを思いつく―――問題は動物を殺すことなのだから、動物を殺さずに肉を手に入れればいいじゃないか! この考えは馬鹿げているように見えるかもしれないが、蛙肉ステーキの製造には既に成功している。安心してください、実験に使った蛙は拾って来てブチ殺したものではなく、実験室でその部位だけを作り出したものだ。培養された非動物肉は「犠牲なき肉」である。

 苦痛も残酷さもない世界というユートピアは、(1)苦しみはつねに否定すべき、(2)ユートピアは動物にとってよい、という二つの根拠に依存してユートピアになっている。ところがこの二つの根拠は誤っている。実際、生物にとって苦しみは他の利害に比べて大したことはないし、ポジティブな面もある。どういうことなのか。本では次のように説明されている。

苦痛のおかげで生物はただ存在するのではなく、自分の存在を認めることができるのだ。肉体的に苦しむことのない者は、世界の中でつねに危険な状態に置かれることになる。なぜなら彼には、自身の限界点に気づかせてくれるどんな精神生理学的指標もないからだ。たとえば焼けるときの痛みを感じることは、気づかないまま重大な火傷を負うことの防止になるだろう。

存在の苦痛と残酷さが持つもうひとつの成果(略…)は、血と辛苦に塗れた進化主義の歴史から愛他心や共感のようなすばらしい感情が発生したということである。

肉食の哲学

 私たちの苦しみが大したことないのは、登山をする者を見ればあきらかだ。あんな苦しい思いをして山に登って、いったい何が楽しいのやらそれを趣味としていない人には見当もつかない。そしてこのことはヒト以外の動物にとっても同じでないと考える理由はなにかあるだろうか。