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にんじんと読む「肉食の哲学(ドミニク・レステル)」🥕 ④

ベジタリアンが思い描くユートピアでは残酷さが善意とお誂えのルールによって消し去ることができるとされている。ここで哲学者クレマン・ロッセ(Clement Rosset:邦訳はなし)に登場してもらおう。彼曰く、〈真実の残酷さ、現実の荒々しさを緩和しようとする者は皆、どんな立派な動機、どんな優れた企ての価値をも結果的には必ず失墜させる〉。

 彼は「残酷さの倫理」をシンプルな2法則でまとめる。①十全なる現実の原則、②不確かさの原則。前者について、まず現実は現実自身でしか説明されない。当たり前のようだが、ほとんどの哲学者はこの事を拒否する。人は現実の残酷さという壁にぶつかり、そして次にどうしようもなさという壁にぶつかる。その心理的不能感に、人は激しく抵抗するというわけだ。そして二つ目、人間は不確かさに耐えられない。だから確かだと感じられる事実に魅惑される―――そして実際、残酷さを否定するラディカルなベジタリアンたちは、「現実の残酷さを引き受けることの拒否」「信じるべき原理の徹底的探究」という特徴を持つ。

 ベジタリアンは勘違いしているが、ベジタリアン以外が殺戮を推奨しているわけではない。捕食は生物の、まさに日常茶飯事のことであるが、それを堕落と捉える彼らは、「倫理的」ということを「自然に反してふるまう」ことと似たようなものだと考えている。「合法的にふるまうことはかならずしも優しくふるまうことではなく、あらゆる暴力が本質的に合法的でないわけではない。暴力は子どもに対するふるまいとして規範的方法ではないが、暴力という手段を禁じられたり、あらゆる暴力から根本的に間もあれている子どもが適切に発達し、バランスのとれた創造的人間になるだろうか。他の動物に対する暴力を欠いた生はたぶんより倫理的かもしれないが……、真に生きるに値する生を成すものに比べ、何か本質的なものを欠いている」(p.79)。

 倫理的ベジタリアンは自然を憎み、理想の自然を好む者である。肉食の嫌悪は根源的には動物に対する嫌悪である。そしてその動物にはヒトももちろん含まれており、他に対して苦痛を与える人間一切を嫌っている。だがこのように言うと、やはり彼らは反発するものだ。だが、勘違いしないでほしい。隣のやつを殴れと言っているわけではない。「ただ苦痛は動物の本性の一部として内在しているということだ」。

 ベジタリアンであることを徹底する者は、遺伝子組み換え食品しか摂取しない覚悟を持つだろうし、それによって遂にはヒトを動物の影響下から抜け出させるだろう。そしてヒトを生物学的に変化させ、ポスト人類を目指すのだ。さらには全ての肉食動物がベジタリアンとなり、捕食者が誰もいない安定した生態系を探すだろう。それがどうしても難しく、かつ、また彼らを滅ぼす方法があるのなら、「倫理的帰結として」その根絶を行わなければならない。ベジタリアンの動物愛は倒錯しており、彼らは動物嫌悪を動物への愛によって正当化する。その意味で、虐待する母親のようなものだ。「その誤った愛は、愛していると主張するものの死あるいは去勢を望み、無害で頼りないぬいぐるみへと取り換えたいのだ」(p.82)。

 肉食はヒトの本来的なあり方ではないといくら主張しようが、大多数のひとは『いきなり!ステーキ』に入ることを別にためらわないだろう。ベジタリアンは「生のあり方や生き物のふるまいを上から目線で倫理的に評価する」「鼻持ちならないほど傲慢」な者である。なにしろ捕食は駄目なのだから。そんなことができる生物はいまだかつていなかった。ベジタリアンは植物になりたがっているのだろうか? おかしなことに、そんなベジタリアンは誰一人存在しないのである。彼らは植物のあらゆる活力を否定して道具化し、肉食者を非難する。