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にんじんと読む「自己評価メソッド」🥕

 自己評価などを気にするのは道徳的に責められてしまうことのようで、変に気が引けてしまうかもしれない。だが、自己というものを適切に評価できていないことが、逆に自分というものに囚われてしまう、《自分というものを気にかけすぎ》てしまうという結果に陥ることは、大変に皮肉である。不適切な自己評価の具体的で、しかもよくある例を挙げると、「成績+物質的な豊かさ+身体的な外見」というものだろう。この三つの尺度ではかると本当にろくなことにならない。

 

 自己評価とは「自分についてどう思うか」「他人からどう見られていると思うか」という二つの柱によって成り立つ。その自己評価自体をはかる尺度としては六つある。

 ①自己評価が高い/低い というまずシンプルな尺度。自己評価が高いと積極的に行動できるようになる。それは「自信」である。だが、社会心理学的にも、人は困難な状況に置かれていないときはいつも、自己評価は高く出ることが知られている。その場にいないとなんとでも言えるというわけだ。②自己評価の安定性 が重要になってくる。何かあったときにズドンと落ちてしまうような不安定な自己評価では役に立たない。

 ところで、一口に自己評価といっても何についての自己評価であるかによって話が変わる場合もあるだろう。種々の分野に話を一般化させるなら、③各自己評価の調和 も欲しい。自己評価を支えているものがたったひとつなら、それが傷ついたときに受ける全体へのダメージははかりしれない。また、核となる自己評価が他人からの評価に傾いていると周りの状況に応じてどう転ぶかわからないので、④自律 に重きをおくほうがよいだろう。また、徳を含めて実践的技能というものは「手入れ」が必要であり、⑤無理のない手入れ ができることが望ましく、その目標が高すぎず低すぎず、⑥適度な位置づけ にあるのが望ましい。

※後者の三つは「核」に関わる話であり、いわば各論であるから、最初の三つと同列に語るのは、個人的にはどうかと思う。

 

 もしも自己評価が歪むと、最初に挙げた二本の柱のことが気になってしょうがなくなるため、自分に囚われてしまう。自分を守るためにとる戦術は「回避」であり、余計に活動しなくなるが、自己評価はさらに歪む。

 

 自己評価を立て直すことはひとつの技能であり訓練が必要で、最初のうちは楽譜を見ながら必死に鍵盤を叩くような気持ちで、「意識的になること」が重視される。状況をありのままに受け止め、どうにもならないことをどうにかするのではなく、そこからどうするかに意識を集中する。自分を批判する必要はまったくなく、活動に焦点を当てるのが重要で、自己批判はまったく意味がない。

  •  自分と話すべきなのは「何がしたいのか」だ。それは自分が何を重んじているのかを確認することでもあり、いままさにどうするかを問うことでもある。大切なものはなんなのか、人生で重きをおくことはなんなのか。個々の活動はその実現を目指すものであり、そのために嫌なことがあるなら、たとえどんな嫌な気分になろうが、実践するしかない。
  •  望むことがすべて実現するような人間は存在しない。望まないことが起きた時に対応するのが大事。「不完全なまま生きる」ことを受け容れ、では具体的にどうするかを考える(ミスらないようにする! ← そんなのは無理)。

 

感想

 そもそも疑問なのだが、「自己」を「評価」する必要などあるだろうか。どちらかといえば「自己評価」などしているからおかしなことになるのであって、「自分にとっての価値を考える」といったことに重きを置いたほうがよいという話になるのではないか。その活動に専心せよというほうが、自己評価というワードを出すよりスッキリ話がまとまるのでは?