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にんじんと読む「知識の哲学」🥕 第二章

第二章 知識に基礎づけが必要だと思いたくなるわけ

【どの推論でいく?】

 命題QがPから推論されるとき(P⇒Q)、演繹には三つの特徴がある。

  1.  真理保存性:前提が真なら結論も真
  2.  単調性:正しい推論にいくら前提をつけたしても真なものは真
  3.  情報量は増えない:PかつQ⇒Pは間違いないが、何も新しい発見はない。

 つまりもし演繹推論に頼るなら、「真理性はまあ安心」だが「なにひとつ新しいことがわからない」ことになる。後者が問題で、これから正しいことを知っていこうとしているのに何も発見がないのではどうしようもない。そこで演繹推論ではなく、たとえば帰納的推論などに頼ることになる。だが、すべてのカラスについて調べるのに有限羽で満足していたらたしかな真理とはいえない――――というわけでいずれにしても問題が出る。正当化のためには推論を使うのだから、いったいどの推論が正当化に使われるべきかも議論されなければならない。ただ正当化がしたいだけなのに、こうしてドンドコドンドコと課題が増えていく。

 

【遡行問題】

 またこんなことも言えるだろう。A⇒BでBの正当化が完了したとして、Aの正当化の課題が残っている。そしてその鎖は一生終わらないように見える。(遡行問題)

 そこに現れるのが「基礎づけ主義者」である。彼らは正当化の連鎖がいつかは終わり、正当化のいらない基礎的信念に達すると考えている。基礎的信念を何とするかは人によるが、いずれにしても正当化の鎖が終わると考えるのが基礎づけ主義者だ。

 あるいは「懐疑論」的に、私たちは何も知らないと結論付ける。つまり、ほんとうに正当化された知識なんてものは存在しない。

 あるいは「無限後退」。つまり正当化の鎖は終わらず、永久に遡り続けることができる。無限後退の問題は””いつまで経っても””にあるのではないことに注意しよう。知っているという言葉の定義からすれば、質問されたときに答える能力があればいいのだから、いくら無限後退されようがそのつど答えられればなんの問題もない。本質的な問題は、その人が無限の信念を持っていることだ。無限に答える能力があるのだから、それだけその人の頭には無限の信念が入っている(しかし、信念がそれぞれ命題で脳に保管されていると考えるからおかしなことになるのではないか、とも考えられる。このことは第十章で議論される)。

 あるいは「循環」。つまり正当化の鎖は、どこかでつながる。A⇒B⇒C⇒Aになる。すなわち、Aが正しいのはAが正しいから、ということになる。

 

 以上より、「まともなアイディアは基礎づけ主義だけだ」と基礎づけ主義者は主張する。基礎的信念がなんなのか、そんなものがほんとにあるのか、といった問題は残るにせよ、遡行問題はバッチリ解決できる。だがコトはそう簡単に収まらない。

 まず登場したのが、古典的基礎づけ主義。

 彼らによれば、基礎的信念は不可疑であり自明なので正当化を必要としない。

  1.  AならばAといったトートロジー
  2.  「何かを思っているような私がいる」という信念
  3.  「いま私には赤いものが見えている」「熱さを感じている」といった信念

 しかし結局、古典的基礎づけ主義はうまくいかなかった。理由は、これら基礎的信念と考えられたものが(1)なんの役にも立たずそれ以上先に進めない、か(2)本当に疑い得ないのか、という問題を解決できなかったからだ。

 基礎づけ主義者が見つけなければならない基礎的信念は、①他の信念から推論的に正当化されない、→②だが何らかの意味で正当化されていなければならない、→③推論以外の正当化がなされていなければならない。そこで基礎づけ主義者の次のプランは、スタートの信念が「疑い得ない」という最強のものでなくても、推論的な仕方以外で正当化されていればよいと考えることだ。だがそんな試みは論理的に否定されてしまう。

 

 前提(1) 基礎的な経験的信念が存在するとする。

 前提(2) 信念が認識論的に正当化されているためには、それが真であるとすべき何らかの理由がなければならない。

 前提(3) 信念が特定のAさんに正当化されているためには、Aさんはその理由を何らかの仕方でもっている。

 前提(4) 信念Bを真であるとすべき理由をAさんがもつためには、Aさんは信念Bが真だという結論をみちびくための前提を正当化された形で信じる以外にはない。

 前提(5) (4)の前提はそのすべてが経験によらないものであってはならない(なぜなら経験的でない信念から経験的な信念が出てきてしまうから)。

 

 さて、基礎的な経験的信念をCとしよう。ここでわざわざ経験的と断っているのは、その信念が推論以外のなにかの仕方で正当化されるということを意味している。

 さてこのCを正当化された形で信じるには、その理由を正当化された形で信じる以外にはない。その理由はいろいろあるかもしれないが、そのうちには必ず経験的な信念が含まれる。ということは、Cを認めるためには別の経験的信念が必要になる―――推論の正当化を抜けたと思ったら別のループに入るだけ!