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にんじんと読む「知識の哲学」🥕 第三章

第三章 基礎づけ主義から外在主義へ

 基礎づけ主義者を打ちのめす五つの前提は次のようなものだった。

 前提(1) 基礎的な経験的信念が存在するとする。

 前提(2) 信念が認識論的に正当化されているためには、それが真であるとすべき何らかの理由がなければならない。

 前提(3) 信念が特定のAさんに正当化されているためには、Aさんはその理由を何らかの仕方でもっている。

 前提(4) 信念Bを真であるとすべき理由をAさんがもつためには、Aさんは信念Bが真だという結論をみちびくための前提を正当化された形で信じる以外にはない。

 前提(5) (4)の前提はそのすべてが経験によらないものであってはならない(なぜなら経験的でない信念から経験的な信念が出てきてしまうから)。

 1を否定することができるわけがない。2を否定するということは、正当化の定義を拒否するということだ。5を否定するということは経験的知識というものの定義から当然成り立つ。だとすると、3か4しかない。

 

①3を拒否して、4を受け容れる ②3を受け容れて、4を拒否する

 

 まず①の逃げ道から検討しよう。すなわち、正当化理由は何らかの仕方で心の中に持っていなければならないが、一方、その理由を「信念」という仕方で持っている必要はないと拒否する。じゃあどんな仕方で持っているのか。その理由は信念よりももっと原初的ななんらかの認知状態という形で持たれており、その認知状態はそれ以上の正当化を必要としないが、正当化を与える能力は持っている……。

 原初的な何らかの認知状態、とはいったいなんなのか。

 次はこれを探さなければならない。その候補として挙げられてきたのが「直観」「直接的な気づき」だった。ここで与えられたニュータイプの基礎づけ主義は非信念的ではあるが、なんにしても認知状態、私たちの心の中の話なので、「内在主義」と呼ばれる。これはうまくいくだろうか。

 直観がなんであれ、それを感覚経験に関するものに限るだろうと考えるのは自然である。「私は赤いトマトのようなものが見えている」とかいう報告がそれで、感覚経験の内容を直接把握しているような認知状態が直観だ。これは本当に正当化を必要とせず、また、信念に正当化を与えることができるようなものなのだろうか―――この立場においてはここが問題になる。そもそも信念を正当化できるというのはどういうことか。「テーブルの上にトマトがある」ことを正当化するものは、なんにしてもこの信念と論理的に関係した内容を持っていなければならないのは当たり前のことだ。それで、この直観というのが命題の形で表されるような内容をもつとしてみると、論理的に、その否定命題の可能性も生じてくる。ならば、証明しなければならない。かといって命題の形で表現できないとしてみると、それは単に外界からの入力を受け取っただけの状態で、なんの内容もないから間違えるということがないという理屈になる。だが、そんなものが何を正当化するというのか。そんなものは認識にさえ届いておらず間違うことはたしかにないかもしれないが、特に意味がない。

 

 

 

 

 今度は②、つまり前提3を蹴って基礎づけ主義を守ることにしよう。3を蹴るということは、『正当化された信念を信じている人は、必ずしもその信念を正当化する理由を心の中にもっている必要はない』ということだ。それはたしかに正当化されているのだが、なぜ正当化されているのかについて、認知的にアクセス可能である必要はないのだ。では基礎的信念の正当化はどこから来るのか?

  •  その信念は外界とのなんらかの関係を持っているということ。
  •  →その関係は基礎的信念を受け容れる理由になっている。
  •  →その関係が成立しているかどうか、その人は認知的なアクセスを持っている必要はない。

 いったいどんな関係なのか。哲学者アームストロングは、『Aさんがしかじかであると信じていることと、世の中が実際にしかじかになっていることとの間に法則的な関連(lawlike connection)があれば』とよいと考えた。「法則的関連」とはなんなのか。ことがらAとBに法則的関連があるというのは、最低限、AであるようなときにはいつもBであるという規則性があるだろう。それに加えて、一方が一方の原因でなければなるまい。なぜなら、歴代生徒会長が「長澤」「山田」……「〇〇」という漢字二文字の連中だったからといって、生徒会長と漢字二文字に法則的連関があるなどとはいえないのだから(規則性はある)。

 さて信念というのはいろいろな形成過程(知覚、記憶、推論、内省、思いつき、……)があるが、『信じられていることと世界のありさまの間に法則的関連が成り立つことが保証されているようなもの』ような形成過程を「信頼のおけるプロセス」と呼ぶことにしよう。このとき、信念が正当化されているとは、それが信頼のおけるプロセスによって形成されたということである。これを信頼性主義という。

 私たちはなぜそうなのか知らないことがありつつも、「そうであることだけは知っている」というようなことがありうる。その点も外在主義は自然であるし、また『ゲティア問題』と言われる哲学上の問題を解決するアイディアとしても非常に重要視されたこともあって、強い影響力を持つようになった。