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にんじんと読む「知識の哲学」🥕 第四章END

第四章 知っているかどうかということは心の中だけで決まることなのだろうか?

 その人の信念が事実として信頼のおけるプロセスで作り上げられてさえいれば、そのプロセスのことなど知らなくても正当化されているというのが信頼性主義だった。だがなんだかよくわからないプロセスに支えられていますから大丈夫ですといわれても、私たちはプロセスについて認知している必要はないということは『知識の最も大切な要素を無視している』と感じさせる。そう訴えるのは内在主義者達である。

 もしも物凄い精度のいいとされるロボットがいて、気温をバッチリ教えてくれるとする。そのロボットは人間の脳に埋め込まれ、その埋め込まれた人は気温がわかるようになるしそれを信じるのだが、なぜそう信じているのかまったくわからない―――その人は気温を知っているなどと言えるのか?

 だが、たとえば動物だって何かを「知っている」だろう。だが、彼らは正当化などできない。とはいえ、蟻塚の中に手を突っ込めばアリが捕獲できることをチンパンジーが知っているのは間違いないのではないか。これを「単に信念を持っているだけ」とみなすのではなく、これこそが「知識」の典型を考えるべきではないのか。しかし一方で、人間は正当化することによって知識を拡大してきたことも否定できない。

このように、外在主義者の直観は知識とは何かを説明するのに適しており、内在主義者の直観は正当化とは何かを説明するのに適している。

知識の哲学 (哲学教科書シリーズ)

 そこで外在主義者の一部は新たな提案をする。「知識に正当化は必要ない」と。

 信頼性主義は知識の古典的な定義に基づいたもので、知識に正当化を要求するが、もはやこの立場は知識観すら超えてしまう。このニュータイプの「知識」を具体的に形にした一つの例が、ドレツキによるものである。【定義】AさんがPということを知っている、というのは、AさんのPという信念がPという情報によって因果的に引き起こされた、ということである。この定義の問題は「情報」であり、知識について論ずる前に情報について論じなければならない。そしてこれはシャノンの情報理論を参考にしながら条件付き確率という道具で定義される。結論からいえば、この知識論はあまりうまくいかない。

 さて、『アクセス可能な形で正当化を持てる認識主体の知識はそれができない主体に比べて高度な適応能力をもたらす』ことは間違いないにしても、アクセス可能であることを知識の要件に含めることはおかしい。正当化を持つことは、「よい」知識の条件とは言えるには違いないが、知識にとって本質的ではないのではないか ———このことを確認しておこう。

 

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 知識を「心のなか」から外に出す。信念→知識→よい知識ではなく、まず知識があり、信念となり、言葉という道具で結び付けられたりする。

『「どのような形で保持され使用されている情報が知識なのか」という問いが、「どのような条件を満たす信念が知識なのか」という伝統的な問いに代わる新しい問題になる。』