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(メモ)ヤスパース ——— 「哲学とは何か?」の人

主観と客観

 「抽象的で無益、空理空論、考えることに汗の匂いなく、実生活に役立たぬ。」

 これが、哲学というものに対する一般的描像。若きヤスパースは大学の講義を受けながら、失望していた。これは本来的な哲学ではない、本来の哲学とは、『自然科学から独立した存在意義をもち、自律的な方法を用いて、人間や世界の現実の根幹を探究する学問』(ヤスパースの実存思想: 主観主義の超克 (プリミエ・コレクション)p.3)なのだ。

歴史を顧みると、哲学が退潮していった過程は、近代自然科学の発展を底流として、個人が自らの「主観」を頼りにして人間や世界と向き合うという姿勢が劣勢になっていく潮流と重なる。

ヤスパースの実存思想: 主観主義の超克 (プリミエ・コレクション)

 つまり、時代が客観に傾き過ぎたのだ。主観とは、個人の意識のはたらきの基点・個人の意識の流れが投錨する場である。客観とは、個人の意識のはたらきの対象であり、存在そのものが個人の意識の流れに映って現象に転化したものである。近代科学は主観性というものをできるだけ排し、あるいは軽視することで成果をあげてきた。そこには〈普遍性〉〈論理性〉〈客観性〉の三つの原理があったが、この原理に基づき組み上げられてきた科学は、たとえば生命現象や、対象との相互交流といったものを見えなくしてしまった。科学も徐々にそのことに気づきはじめ、客観性を謳うすべての科学理論も、結局は主観を関わらせざるを得ないことが明らかになってきた。

 だがこのことは認めるにしても、主観主義に陥ってはならない。その骨子を定式化すると、こうなる。

  1.  真の実在は個人の内面にある。根源的実体は個人の意識である。個人の自己を規定するのは当人の意識であって、身体や社会ではない。
  2.  真理の問題を個人個人の私的領域に位置づけ、真理について合理的に議論する可能性を排除する。主体的真理に基づく個人の行動は、その成否が自己言及的に決定されるため、無制約的に正当化されうる。
  3.  価値は個人の恣意によって内在的に決定される。個人の主観的な価値判断は、合理的なあるいは外在的な根拠がなくとも、それ自体で妥当性をもつ。

 ヤスパースは主観と客観を統合し、両者の関係を追及しようとした。

 

中心的な思考対象

 ハイデガーが熟考したのが「存在忘却」ならば、ヤスパースが熟考したのは「自己忘却」である。それは、哲学というものが哲学を忘れている、という意味であった。彼は大学時代に講義された哲学に対する失望をこう書く―――哲学は見向きもされなくなった。哲学自身が自らを忘れ、自らの課題を果たさないから。

 

 哲学とはなにか?

 

 彼がまず排するのは「科学」と「宗教」だった。哲学は宗教でも科学でもない。ではなんなのか。哲学がはじまった2500年前を振り返ってみることは助けになるだろうか。当時、哲学をはじめるきっかけは驚きであった。時を下り、デカルトの時代には懐疑が哲学を始めさせた。だが現代、哲学の根源は驚異でも懐疑でもないのだとヤスパースはいう。彼によれば、哲学の根源は限界状況にある。

 私たちはいつも何らかの状況にある。そして絶対にそこから逃れることはできない、つまりどんな状況でもないような自分などありえない。状況にはさまざまなものがあり、私たちはそれを渡り歩いているが、一方で、変化しないような状況も存在する。たとえば、私が死なざるをえないことがそうである。これが限界状況と呼ばれるものだ。限界状況は回避できない。たいてい、そこで目をつぶって過ごす。しかし、私たちは積極的にその限界状況に足を踏み入れることもできる―――このことこそ、哲学の根源なのだ。科学はいつも対象性と結びついているが、哲学は対象性ではなく、対象の「向こう側」を見据える。