にんじんブログ

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『なぜ日本人は世間と寝たがるのか』『なぜ世界は存在しないのか』

なぜ日本人は世間と寝たがるのか

 日本人には「世間」という人的関係が根底にあり、その上に建前としての「社会」が乗っかっている。一人ひとりは独立した個人だと建前としては認められているのだが、結婚式場に〇〇家✖✖家結婚披露宴と書いてあるように背後には集団が隠れている。

  •  世間の掟①:贈与・互酬関係 こんなことならどこの国にもありそうだが、お中元なるものを大規模に贈り合っているところはほとんどないし、そして、贈られたものと大体同じものを返すという慣習もない。ヨーロッパにも世間はあったのだが、キリスト教によって「善行すれば死後天国」といったようにお返しを現世のものでないところに移したことによって、見返りを一掃してしまった。
  •  世間の掟②:身分制 日本は年齢にこだわる。長女だの次女だの長男だの次男だのを区別するのは珍しい。YOUという言葉だけでも多くの言い方がある。
  •  世間の掟③:共通の時間意識 日本人は能力平等意識がある。私たちはみんな変わらない。だから努力というものが非常に重んじられる。ちょっと飛びぬけているとひどくねたまれる。また、いじめはどこの国にもあるが、みんなが一致してシカトすることなどない。一致しないからだ。

     

     

  •  世間の掟④:呪術性 恵方巻。大安の日に結婚。お盆。クリスマス。初詣。しかし一方で、別に何かを「信じて」いるわけではない。

 これらの掟は個人個人のなかで内面化されており、みんな当たり前だと思っている。これが「世間」が根底にあるということである。世間は外部からの圧力としては働かず、むしろ私たちの存在論的安心感をもたらす。逆に世間から弾かれると不安でたまらなくなるのだ。

 個人といえば「自由恋愛」であるが、これも明治に西洋から輸入されたもので、これより以前には恋愛はなかった(【メモ】明治20年代の愛 - にんじんブログ)。『西欧の悲恋や失恋は当事者の悲劇であったが、日本の恋愛の悲劇の多くは当事者のものではなく、親や周囲の干渉によって成就しなかった悲劇として語られている』。……

 

 

なぜ世界は存在しないのか

 形而上学とは、世界全体についての理論である。形而上学は世界を「現実に成立していることがらの総体」とするのだが、現実にそれが成立しているかどうかを知るために『認識のプロセスに人間が加えた作為のいっさいを取り除かなければならない』と考える。一方、ポストモダン的な思想においては、『わたしたちにたいして現われているかぎりでの事物だけが存在する』と考える。その背後になにかがあろうが、私たちには一切関知することができない。わたしたちはわたしたちの世界を生きるだけで、決してそれらの影響を受けないありのままの世界になどアクセスできないと考えるのである。

 ガブリエルの判ずるところ、ポストモダン的な思想は結局形而上学の派生形態にすぎない。ありのままの世界にどうやってアクセスしようかと考えて、「できません」と答えるのがポストモダンだからだ。私たちがありのままの世界を見る際にかけている色眼鏡の数はいろいろあるが、まあともかく、背後にある世界には結局到達できない。

 これに対して新たに打ち出さんとするのは、新しい実在論である。

 ここにおいては一体何が存在するか? まず目の前に見えている富士山そのもの。ふたつめに、あなたに見られている富士山。みっつめに、Aさんに見られている富士山。よっつめに、Bさんに見られている富士山。………要するに新しい実在論においては、ありのままの世界も、それぞれの世界も全部認めてしまう。あなたが見ているのは富士山の幻覚ではない。とはいえ、他の正しい見方もある。

 それはいいとして、こうなると腐るほどたくさんの存在があることになる。というよりも存在しすぎて「なんでもあり」のようにさえ見える。このままでは「存在する」と主張することに何の意味もなくなってしまう。逆に言えば、「それは存在しないでしょ」と言うことができない。どんな妙ちきりんなものでも存在していなければならず、しかもそれについては認めざるを得ないのはどうかしている。

 そこで明らかにすべきは「存在する」とはどういうことか、ということである。それはつまり、「コレコレということなら、たしかに存在していますね」というコレコレを言うことである。無条件ではないが、厳しすぎてもいけない。

 

 ところで物理学という学問の上では、「惑星」は存在するが、「居間」など存在しない。物理学においては「居間」など俎上にあげられることがないのは、物理学において、居間で食事しようが、アイロンをかけようが、テレビをみようが関知しない。これを言い換えて、『居間と惑星は、けっして同じ対象領域には属して』いない、という。

対象領域とは、特定の諸対象を包摂する領域のことです。

なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)

 政治という対象領域には、有権者、地域のお祭り行事、一般党員、税金等々が属す。自然数という対象領域には、5とか、7とか、特定の算術的な基本法則が適用される。左手の五本指は、左手という対象領域に属す。左手の場合は、人差し指だけが置き去りにされて隣町に出かけることはない。一方、東京都知事は東京を離れようがどこに行こうが、空間的には囚われずに都知事のままである。このように、対象領域にはさまざまな種類がある。明らかなことは、

  1.  『どんな対象も何らかの対象領域に現れて』くる。
  2.  『対象領域は数多く存在』する。

 宇宙とは物理学という領域の話で、「世界」とは異なることは実感できるところだろう。ところで「世界」とはなんなのか。

 

……