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にんじんと読む「哲学へ ヤスパースとともに」🥕

万人の哲学と哲学者の哲学

 人は誰しも哲学する。「哲学」というものを一義的に説明できないとしても、「哲学する」という人間のはたらきは万人に共通するものなのである。哲学とはphilosphy、つまりギリシャ語由来の””知を愛する””という言葉をもとにする。「知」の具体的内容は明らかでないが、””知を愛する””ことについては、『人間がそれぞれの状況の中で逢着する自分の問題に関して自ら問いを発しつつ、何らかの答えを求めていくというはたらき』(p.22)と説明できるだろう。だからこそ、哲学の中身はその各々の人間に応じて多様なものとなっていくのである。

 哲学する動機は何か不思議なことを知ろうとする理論的なものと、自分自身を問題のうちに含めた生き方としての問題・実践的なものの二類型が考えられるだろう。私たちは世界の内に生まれ、育ち、物事を積極的に意味づけて生きている。この点はヒト以外の動物にもある程度は当てはまるだろうが、言語という道具を用いて出来事と一定の距離をとれるようになったヒトにとって、哲学するというはたらきは際立った特徴となっている。その意味で哲学は、一人前の人間であれば何ほどか身につけている。たとえ哲学思想と呼ばれることがないとしても、物事を自分なりに意味づけ了解し、考えを修正したり押し進めたりしているのである。

 その意味ではすべての人間は哲学者と言えるだろうが、学としての哲学者ではない。それぞれの人が持っている哲学は二段階の学問的処理を施され、学と称されるにふさわしいまとまりをもった見方や考え方になるのである。第一にそれは客観的な概念化であり、つまり、それを他人にもわかるような概念を用いて表現するということである。第二に、一貫した方法による組織化であり、いろいろな考え同士を整理しまとめるという過程である。

およそ右のような手続きによって学問としてのまとまりと客観性と伝達可能性を備えるようになった哲学思想が「学としての哲学」であるといえよう

哲学へ―ヤスパースとともに

 

現代

 現代は、『すべての人が読み書きを覚え、知識や学歴を身につけ、地球人類が一つにまとまったかのような感を呈している』。だが私たちはみな古代人のように「民族」を持たず、伝統的な秩序がなく、精神的伝統もなく、なにをたよりにしてよいかわからない状態へ置かれている。『現代に生きるわれわれは、自分が何のために生きるのか、といった人類永遠の問いをじっくりと考え、個人として誠実に応答するよりも前に、否応なしに大衆の一員に数えられ』る。医療・科学技術の進歩、「合理的な・効率的な・無駄のない」時間の追求、物質的豊かさ、といった本来よいとされているものがじっくり考えることを妨げる要素となっている。これらが妨げる要素であるのは、私たちがより善く生きようとしたときにこれらを求めるのであるが、求めるがゆえに「大衆」の一人として流されるような生き方を強いられるからである。

 現代は人類がこれまでにないほどつながりを持ち、安全になった時代である。本来は歴史の大転換、古代ギリシャ哲学・諸子百家仏陀等々の人物を輩出したような時代になることが望まれる時代である。だが現代はむしろ、反対の方向へ進んでいる。

古代ギリシャ人は、スコレー(閑暇)を大事にした。スコレーとは学校schoolの語源となった言葉であるが、実利を離れて真理を探究するための時間的ゆとりを意味する。彼らは実践的な活動よりも、物事をじっくりと思索する観想の態度を重視したのである。そしてそこから哲学が誕生した。われわれも、時間を金銭や目にみえる成果に換算する生き方ではなくて、立ち止まって自己自身について考えたり、真に人間的な時間をもつことに喜びを感じるような生き方をしたいものである。

哲学へ―ヤスパースとともに