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にんじんと読む「フッサール現象学の生成」🥕 序~第二章

 フッサールにはじまる現象学は、テキストをきちんと読めばわかるもので、現代的意義を有していることが理解されるというのに、歴史的にはいつも批判ばかりされてきたしその批判を前提として議論を進めているような例も数多い。本書(「フッサール現象学の生成」)は改めてフッサール現象学を辿り直す試みである。

 現象学とは名前の通り、現象の学である。フッサールにおいてそれは、『意識に現れてくる現象に定位し、それをありのままに見つめ、この現象の背後、あるいはむしろ手前で働いている意識の志向性のロゴス(Logos)を解明する営み』である―――意識に現れてくる現象より始めよ。この与件はいつもそれ以上のものとして捉えられていることに気づく。この二つの差異を生みだす働き、与件を何か〈として〉捉える働きを意識の志向性と呼ぶ。志向性はなんでもありで働き世の中をめちゃくちゃに映し出すわけではなく、一定の秩序(ロゴス)が認められる。これを解明することで世界という現象を理解すること、そしてそれを通じて〈意識〉つまり世界という現象が現れる〈自己〉という場を理解すること。これが現象学である。

 そして意識に現れてくる現象をありのままに記述する方法としてフッサールが考えたのが現象学的方法と呼ばれるものである。ところで『純粋理性批判』のカントもまた主観という自らの目を問題にした哲学者であるが、彼とフッサールが異なるのは、カントが「自己」に蔵した諸原理を前提したことである。それに対し、フッサールは事象そのものから始めた。事象を見つめ、事象を支える下図を理解し、それによってより事象がクリアに見えるようになる。彼の現象学はいつも事象からはじまるのだ。

 

第一章 フッサール現象学前史

 「序」において現象学の概略を説明した。現象を見つめ、背後に働く志向性という働きを知りそのロゴスを解明することが、現象学であった。この志向性という働きは現象の下図であり、ふだんはまったく意識にのぼることがない。それならばなおのこと、なぜフッサールが志向性に気が付いたのかについて振り返らねばならない。

 フッサール青年は大学においてさまざまなことを学んだ。だが中でも学問上のキャリアのはじまりとなった中心的な学問は、数学であった。彼の時代、数学の基礎は揺らぎ、二つの立場が対立し合っていた。フッサールの二人の先生、ヴァイアーシュトラースとクローネッカーはそれぞれの陣営に立っており、彼はその渦中にいた。数学という巨大な学問の基礎を固めなければならないという強い気迫を二人から感じ、「徹底的にやる」という精神を学んだ彼は、やはり数学的基礎づけの徹底に加わろうと考えた。先生の考えにも影響されつつ、フッサールは「数える」という心理的作用があらゆる数の前提となっているというアイディアに目を向けた。

 だが一方で、数というのは心のなかだけにあるものとは思えない。1+1=2というのはそう思うときだけ真なのではなくて、やはりいつだって真だしこれからも真で、思うと思わないとにかかわらず意味をもつものだろう。とはいえ、数えるということとは無関係なはずはない。………「1」という数が持つ意味は、数えるといったような作用を超えたものだという発想によって、背後ではたらくなにかを感じたのである。そしてそれがどうやって作り出されるかという秩序の解明に取り組もうとしたとき、フッサールは数学から哲学という分野を進むこととなったのである。

 だがここではまだ、現象学は誕生するには至らない。

 

 

第二章 現象学の誕生

 フッサールが数学の基礎づけという課題のために目を向けたのは「数える」といったような心理的作用であった。それは数学を超え、一般に「意味」なる理念的なものに向けられるが、これをすべて心理学の領分としてしまうことには反対であった―――論理的なものの心理学的基礎づけを目指す立場を〈心理主義〉と呼ぶ。

 たとえば矛盾律(Aは非Aではない)は心理主義的に説明すると、これは私たちのふつうの考え方の一般化である。つまりそれは帰納的に導かれた経験的な主張ということになろう。すると論理学的な諸原理はすべて、蓋然性しか持たないことになる。しかもそれら事実は人の心次第なのだから結局は正しいことはなんにもないということになりかねないし、所詮人類にだけ当てはまる事実に過ぎないということにもなる。ひいては、心理主義は自らの立場そのものすら、正しいといって堅持することはできなくなるだろう。すると、心理主義はどこか間違っていると言わなければならない。

 フッサールが批判したのは次の三点である。

  1.  考えるのは心。論理的諸法則が心理学に基づくのは自明。
  2.  論理的諸概念はすべて心理的活動による現象や形成物。
  3.  ある判断を真だと確信するのは、その判断が明証感情、つまり明らかだと感じられるという心理的なものにもとづく。

 これに対してフッサールは次のような立場をとる。

  1.  第一。論理的諸法則は論理的諸概念に基づいている。それゆえにそれらは経験から導出されるものではない。
  2.  第二。論理的諸概念は単なる心理的形成物以上のものである。たとえば数は数えるというはたらきを起源にもつが、数自体はさまざまな個別事例から抽象によって把握された理念なのである。たとえば1は、車1台、鳥1羽……という個別事例を超えた、つまり数えるという単なるはたらき以上の中身をもつ。「車」という概念自体も、単なる個物ではない。
  3.  第三。たしかに何かを確信するのには明証感情が伴うが、だからといって論理的諸法則・論理的諸概念・それらに基づくあらゆる判断自体は心理学的な命題ではない。

 そして哲学者の役割は、原初的な諸概念の「起源」を突き止めることである。つまりそうした諸概念が単なる作用を超えて構成されるさまを描き出すことである。そしてそうしたものは、何らかの初体験に基づく抽象によって生まれきたったものであるのだから、理想的にはそういった構成物が出てくる前の状態に戻って改めて組み立て直すということをやれれば嬉しい。そこで立ち返ることが求められるのは「事象そのもの」であり、事象に向かう「志向性」というはたらきである。

 というわけで必然的に事象そのものへ戻る方法論が必要になる。簡単にいえば、それはあらゆる仮定を排して諸体験を見つめ直すことである。これを「無前提性の原理=諸体験のうちに実的に見出されないようなすべての理論的仮定は排除する」を満たすという。こうしたことが行われないのであれば、組み立て直すという作業ができないわけだから、当然に要求されるのは明らかである。

 こうした哲学的営みが「基礎づけ」となりうるのは、その判断が作られたあらましをわれわれみんなが確認することができ、しかもその根本は無前提性の原理を満たす純粋な体験なのでだれもが納得できるからである。