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にんじんと読む「明治〈美人〉論」🥕

 写真技術の到来は1848年(嘉永元年)長崎・ダゲレオタイプであり、撮影成功は1857年(安政四年)で島津斉彬を写したもの。幕末には既に知られつつあった写真技術が一般に普及したのは明治以降となる。『明治という新時代は、写真に限らず、さまざまな分野で「真実」や「真理」という概念がもてはやされた時代であった』。写真もこのブームを背景に、真を写すという革新性に驚かれ、定着した。

 初期の写真撮影は限られた人びとであった。普及する過程で重要なのは「美人写真」である。「写真師は文明開化の新しい花形職業」であったのはまず技術が難しいからであったが、明治15年(1882年)に渡米した小川一眞が現地技術を取得し、18年に東京で開業することで写真の大衆化が進んだ。明治24年、「凌雲閣百美人」コンテストという日本初の美人コンテストが開催される。ビルに写真を展示し、投票によって行われた。全百枚。讀賣新聞(明治7年創刊)においても当時の凌雲閣のイベントは報じられている。撮影はすべて小川一眞であり、こうしたことは写真の魅力を一般に知らしめる役割を果たした。

 当時、美人といえば花柳界の女性であり、日本の写真史は独特に展開したといえる。つまり日本の場合、撮られる側は女性、撮る側は男性と決まっていた。芸者は明治の芸能人であり社交界における接待役だった。必然的に芸者と男性権力者との親交も深まる。現代の芸能人と違うのは、狭いお座敷で直接に客に対峙することで、コミュニケーション能力を磨いていたことである。しかし同時に明治において芸者は厳しく批判され、下賤であるともいわれた。『賛美と軽蔑――相反する視線をあびた芸者たちは、新旧の価値観が揺れ動く激動の明治期の象徴でもあったのである』。

 明治前半の女性雑誌に共有された問題意識は、女性の社会的地位の向上・知的レベルの向上であり、「女学」=女性の学問ということばも流行した。明治政府の教育方針としての男女平等思想は男女の教育の機会均等の基盤となった。いわば、政府お墨付きのポリシーだったのである。とはいえ、教育の最終目的は国であったことは留意しなければならず、そこに女性自身の主体的な学びという観点は抜け落ちていた。女子教育は国家の発展に貢献する子供(男子)を家庭で育てることに特化しており、そのために教育の機会を保証された。この既定路線が、明治の女性雑誌のなかにも広く展開していく。表紙や口絵には女性=家庭をイメージした絵が描かれた。明治後半になって女性雑誌に写真グラビアが取り入れられるとよりこのメッセージ性が強くなる。特に女学生の写真はグラビアの定番であった。それは『当時の女学生たちが、「文明開化」という“国策”を担う輝ける星として、社会的意味を見出されていた』からであった。

 凌雲閣百美人コンテストからほぼ十五年後の明治40年、一般女性の美人コンテストが初めて開催される。七千枚近く集まった。美人であることを公的にアピールしようとする女性が登場していたのである。実物よりも写真うつりが勝負の分かれ目だと審査員自ら発言する通り、それを意識して化粧も変化する。厚化粧から薄化粧へ、これは写真うつりもあるが、手を加えた人工的な美しさよりも飾らぬ美しさのほうが自然で価値があるという認識である。明治の「改良」ブームからも、日本髪より簡易な束髪のほうが美しいという考え方もうまれ、婦人束髪会という団体もうまれた。このような美人観の変遷は、美人を担う女性を芸者から一般家庭の子女への変化ももたらした。兄が勝手に送ったとはいうものの、結果的に一位に輝いた末松ヒロ子の写真を三位の土屋ノブ子のものと比較すると驚くだろう。ヒロ子の写真は、大きく結った束髪とリボンという女学生のトレード・マーク、眉も太く芸者たちの眉が整えられていたのとは対照的に「自然」な印象である。一方ノブ子は古風な立ち姿で、凌雲閣百美人コンテストを受け継いでいる。ヒロ子という女学生の勝利は、[芸者から女学生へと理想の女性像が変化する証でもあった』。

 しかし一方で、美人であると認定されるというのは「女学生であるにもかかわらず」という不名誉なことともみなされた。実際、末松ヒロ子はその写真を原因として学校を退学になっている。ヒロ子は義理の兄が勝手に送った写真を取り戻してほしいと懇願し、入賞の知らせを喜ばず困惑し、「一等にあたったなんぞって、私は困ります。彼の写真は一等か存じませんが、私は一等ではありません」とコメントした。これは『被写体の意志を無視してイメージを一人歩きさせる写真というメディアの暴力性、加害者性を露わにする』。このように、写真の被写体になって美人を不名誉ととらえる意識も芽生えていたのである。