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⇧ (勝ち続けの日本に非難集まる)
1970年代後半 日本はアメリカと並ぶ経済大国に
- オイルショックによる不況から脱した日本は安定的な経済成長へ。輸出好調。しかし欧米諸国は日本のやり方を非難。特にアメリカは貿易赤字を抱え、日本との外交問題へ。そこに中曽根康弘内閣は貿易黒字よりも日米関係の維持を優先し、プラザ合意がなされる。
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- 日本の主要産業は重厚長大型産業と称された重化学工業であったが、1973年にアラブ産油国が原油価格を4倍に引き上げ、日本の産業は大打撃を受ける。このオイルショックにより経済成長率低下・物価上昇・経済収支の赤字となる。日本政府は景気刺激策をとり、賃上げを労働生産性の伸び以内にとどめさせ、企業は省エネ型の産業や製品を開発した。こうした努力が実り三重苦が落ち着いてくるが、その脇で円高が進行。このため福田内閣が内需拡大を促す経済政策を実施。再び安定。ところが1979年、大平内閣において、また原油価格を3倍に引き上げられたため第二次オイルショックが発生。日本企業はリストラや省エネ化を断行し、減量につとめ、再び危機を乗り越えた。
⇧ (オイルショック)
※1955年から 高度経済成長期
- 1956年経済白書「もはや戦後ではない」が掲載。
- 1950年に朝鮮戦争による特需で日本経済活気づく=電力・造船・鉄鋼部門に大規模資本投入、活発な設備投資。これによって1955年頃から大型の好景気が到来。これらの景気を長続きさせるため、池田勇人内閣が積極的な支援を実施。大規模公共事業。貿易拡大。
- 一方、第一次産業の人口急減。都市部過密化。「兎小屋」程度の居住空間しか確保できない人が多く、郊外に団地がならぶ。多くの都市問題が出現。経済成長を求める企業が汚染物質・産業廃棄物をまきちらす。→1960年代から公害反対運動はじまり、1967年に公害対策基本法、1971年に環境庁を発足。
⇧ (経済政策を強化)
1960年 岸信介内閣から池田勇人内閣へ。国民所得倍増計画を閣議決定
- 池田内閣は国民を政治・思想闘争から引き離すため、経済重視のスタンスをとる。岸信介内閣の対決姿勢の政治は、さまざまな政策をなかば強引に成立させたが、国民の権利を侵害しかねないとして反対派の声が強くなり、「60年安保闘争」と呼ばれる混乱に突入。
⇧ (岸内閣退陣運動)
1960年1月新安保条約調印
- 日米安全保障条約が不平等なものであったため岸首相は改定を強く望んだ。その結果が新安保条約であったが、共産党・社会党・総評などの革新勢力134団体による安保改定阻止国民会議が組織され、全日本学生自治会総連合(全学連)も協力してデモ隊を結成。連日、国会周辺をとりまく。彼らは安保条約の存在自体に反対。極東での戦争勃発によって米軍基地のある日本が戦争に巻き込まれると考えた。
- そのような反発があるなかで、岸内閣は新安保を強行採決。安保闘争は岸内閣退陣運動へ。「岸を殺せ」というプラカードを掲げるものさえ現われ、アイゼンハウアー米大統領の訪日が中止となった。強行採決ができたのは自民党の一党優位の状態であったから。自民党が一党優位になったのは岸内閣が成立した翌年の衆議院選挙で、それは自由民主党が誕生して初の選挙であった。
⇧ (自民党一党優位へ)
1951年9月8日 サンフランシスコ平和条約・日米安全保障条約調印。
- 吉田茂は7年政権についたが、その間にサンフランシスコ平和条約に調印し、日本を独立させる。公職追放されていた鳩山一郎と吉田茂が対立し、1954年に鳩山一郎が日本民主党をつくるが、ちょうどそんなときに政治家たちの不祥事が次々に発覚。世論が激高し、吉田内閣は総辞職に追い込まれる。1954年12月に鳩山・日本民主党が内閣を組織する。一方、革新勢力の数も伸びてきており、財界は日本が社会主義化するのを心配して自由党と日本民主党の合流を切望。1955年11月に自由民主党が誕生する。初代総裁:鳩山一郎。政界引退後は二代目を挟み、三代目に岸信介が指名されることとなる。
- 1958年の総選挙で自民党が勝利したのは、日本の社会主義化への警戒感であった。
⇧ (サンフランシスコ平和条約調印へ)
1950年 朝鮮戦争
- まだ日本がGHQの統治下にあった1950年、朝鮮戦争が勃発。休戦協定を結ぶまで3年間要す。GHQは日本の共産主義勢力の拡大を防ぐため、公職追放などを指示(レッドパージ)。日本の弱体化を進めたアメリカだったが、共産主義の防壁にするために再軍備を進めるため、警察予備隊の新設を命令する。
- 日本を独立させるため講和条約を結ばせたいアメリカだったが、戦争で敵対した連合国のうちでも東側陣営(社会主義)が応じる可能性は低く、西側(自由主義)のみとの講和を要請。賠償責任を軽くしてもらうことを条件に同意し、全面講和を望み反対する声を押し切ってサンフランシスコ講和条約に調印する。
⇧ (日本の占領政策の転換)
- 中国で起きた内戦では共産党が勝ち、朝鮮は二つに割れた。東アジアの社会主義化が進んだため、アメリカは対日占領方針を転換する。最初は日本を弱小国家にしようと思っていたが、経済的に自立させて西側の防壁にしようと目論む。そこで「経済安定9原則」を命令し、経済的自立を急がせる。さらにデトロイト銀行の頭取ドッジを日本へ派遣し、政府に赤字を許さないようにした。結果として猛烈なインフレーションが起こったため、ドッジ=ラインと呼ばれる経済政策を敢行。黒字に転換。
- しかし一方で、補助金カットや公務員削減のおかげで大量の失業者が町に溢れ、中小企業が倒産。政府としては黒字で、インフレが収まっても、日本経済は上を向かなかった。そんなときに起きたのが1950年の朝鮮戦争による特需であった。