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【二回目】にんじんと読む「男たち/女たちの恋愛」🥕 ②

明治20年代、真友という概念ととも構築されていたのは「家庭(ホーム)」だった。はじまりは明治28年『女学雑誌』において描かれた家庭の姿だった。そこにおける家庭像は、成員間に特別な関係性、愛情や親密さといった情緒的結合を求めるものであった。実はこうした家族の情緒化は、新しい考え方である。前近代社会における農民・町人・武家の家族は、ひとつの経営体であり、成員はその担い手だった。しかし明治維新によって家業から解き放たれ、俸給で雇用される職業が登場してからは家族は経営体としてのまとまりを失っていった。要するに、そんな家族に残されたものは「情緒的結合」しかなかったのだ。

 だが明治20年代といえば、近代的職業に就く人はごくわずかで「家庭」という観念自体はっきりと存在していたわけではなかった。だというのに、このような家族像が描かれたのはなぜだろう。そこには「真友」という前述の文脈がある。明治24年、『女学雑誌』の編集人である巌本善治も宣言しているように、「夫婦は真の友」だということだ。まずもっとも重視されたのは夫婦間の絆であり、夫婦は真友という言葉で表現されるべきものだった。本当に自分を理解してくれる存在を、夫婦関係に見出そうとしたのが『女学雑誌』だったのである。この雑誌において確立された「家庭」観は、「自己」の領域としての「家庭」の登場であったといえる。

 しかも、巌本は夫婦を真友と呼ぶだけにとどまらず、唯一の真友と言っている。世の中で夫婦のほかの関係はすべて上下関係であるから、自己をさらけだした交流をもつものは配偶者のほかいないという理屈である。ところが残念なことに、当時の夫婦の実態は同等な関係とはほど遠かったのが現実である。だというのに『女学雑誌』の彼らが理想の夫婦像を主張したのかといえば、まず彼らのほとんどがキリスト者だったということ、そして近代国家の建設するために男女関係を改良しなければならないという認識が知識人のあいだで課題として共有されはじめていたということと関係がある。

 さて、近代国家の基礎として理想とされた夫婦とは「男は仕事、女は家庭」という性別役割分業にのっとった夫婦であった。このことは家庭が自己の領域、つまり私的な領域であるという考え方と密接に結びついている。つまり仕事という公的領域から戻って来た男は、家庭のなかに自己をさらけだす私的領域を求めたのである。だがそのような「家庭」の構築は完全に男性の目線から作られたものである。女性にとって家庭は労働の場であり、しかも、私的な場なのだ。とはいえ、男にとってもこの公私の二つの領域は自分を苦しめることにもなった。つまり男の自己の解放とは常に公的活動をセットにして成立するものであり、公私のバランスを保つこと、特に私的領域にばかりうつつをぬかすなということが求められたのだ。このような戒めは「男子たるもの恋愛ではなく功名をとれ」というメッセージにもつながっている。男はこうした緊張関係のなかで、過ごすこととなったのである。

 

 まとめておこう。まず明治維新が起き、自由を得、自らの道を決めなければならなくなった人々は自由民権運動の流れもあって政治へと生き甲斐を見出していた。ところがそれが退潮してくる明治20年代になると、政治熱を失い「本当の自分」を探し求めるなかで「真友」という関係性を欲する人々が生まれてくる。それが近代国家の建設という最初の文脈と組み合わさって、夫婦関係に真友を見出し、公的領域において疲れた自己を理解してくれる私的領域としての「家庭」が理想として構築されるようになった。ところがそれは男性の目線からの考え方であり、女性には自己の行き場がない。また一方で、この考え方のもとだと私的領域を得るためには公的な役割を確立しなければならず、男性もまた一種の緊張状態に置かれることとなってしまったのだった。

 

 そもそもこうした自己の希求自体、男性から始まったものである。彼らは夫婦を真友とみなすことは、女性にとっても名誉なことにちがいないと考えた。というのも、そこでは女性が単なる情欲の対象ではなくなっていたからだ。しかも真友である以上、配偶者選択は相互の同意、相手の人格を認めることでもある。

 だがやはり、男性が確保したかった私的領域のためには、妻が「家庭」という領域を夫にとっての自己解放の場となるように奉仕することが欠かせない。妻の愛は妻の役割として語られるばかりで、夫の愛が「自己」と関係していたこととは大きく異なっていた。女性が自己と役割との境界が曖昧な地位におかれるという非対称性は、恋愛観念の形成に重要な意味をもっていくことになる。