にんじんブログ

にんじんの生活・勉強の記録です。

MENU にんじんコンテンツを一望しよう!「3CS」

【二回目】にんじんと読む「男たち/女たちの恋愛」🥕 ③

さて、このように形成された「夫婦愛」の形にすべての人が同意していたわけではない。明治20年代後半から明治末にかけて、立身出世という公的規範、男性が担うべき役割といったようなものを否定し、自己探求のみを求めた青年たちがいたのだ。彼らは必ずしも結婚とは結び付かない恋愛を希求した。その嚆矢は、明治25年、北村透谷『厭世詩家と女性』である。

 透谷は実世界というものを、義務と労働に満ち溢れた抑圧的なものだと論ずる―――人はいつまでも純粋無垢でいることはできず、そうした世界に直面せざるを得ない。だが恋愛をしているとき、人は純粋なままでいられる……。透谷は立身出世によって獲得する諸価値をはっきり否定している。外面的な物差しではかれない自己が具体化される関係こそ、恋愛である。一方、彼は夫婦愛には何の希望も見出していない。これは先述したように、夫婦愛によって得られる私的領域が、公的な「役割」を前提としていることと関係している。彼は社会的役割を呼び寄せないために、結婚を否定したのだ。彼は恋愛を正当化するにあたり、自然と社会を対置させて、恋愛は自然に属するものとした。恋愛は自然なものであり、それゆえに社会以前の自己を具現化する。

 ところが、透谷の恋愛論は男女のものであることを自明としている。この点は注意すべきだろう。そもそも真友を求めるという大きな流れのなかで「男と女」という組み合わせはそれほど当然の考え方だったわけではないし、決定的な根拠を持っていたわけではない。たとえば肉体的なことにしても、そもそも真友というのは「心」を問題にしているものであり、肉体性とは切り離されて考えられている。もちろん生物学的な知識が輸入されるにつれてその点を特権視する見方もある。明治19年には既に福沢諭吉が『男女交際論』において、肉体的な男女の組み合わせの「自然さ」を、精神的関係においても適用し男女交際をすすめている。だがこうした流れは『女学雑誌』の「家庭(ホーム)」には見られない。

 北村透谷の姿勢は明治20年代においては特異なものだったが、明治30年代となると立身出世を疑問に思う青年たちが群をなしてあらわれる。国家への貢献・立身出世に対する疑問は、人生の意義というのはやはり自己の探究だという確信へと改めて流れる。そこで注目されたのは「芸術」である。西洋芸術作品とともに流入した西洋芸術観とは、反社会的であることによって社会に存在意義を認められる存在が芸術家であるというものだった。そして反社会的であるとは、社会に統御される以前の「自然」「あるがまま」「真の自己」から溢れ出る自然な発想をもち続けることである。このような心性は明治30-40年代の社会に定着していく。いわゆる自然主義文学というものも、文学とはありのままの自己を表現するものだという文学観である。

 ところでこうした方向性はそれまで自己にのみ向けられていた目を、狭き門ながら、芸術家としての社会的な成功という意味で、公的領域に向けることでもあった。単なる立身出世、単なる稼ぎ手として終わりたくないと考えるインテリ層はこれに共鳴する。つまり公的領域における仕事さえもが「役割」ではなく「自己表現」に代わる生き方への強い憧れである。その方向で成功する人々はもちろんいたが、誰しもがそんな仕事について生活できるわけではない。このとき存在感を増しつつあったのが、初期社会主義思想である。このことは偶然ではない。『なぜなら、初期社会主義思想にしても「パンのための労働」に忙殺されることから解放された先に、個々人が「才能」を開花させることのできる社会を理想としていたからである』。