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【二回目】にんじんと読む「男たち/女たちの恋愛」🥕 ④

このような立身出世を望まない「反社会」的な考え方が広まることは当然社会から見て望ましいことではなかった。特に日露戦争終結明治38年)後は政府も「煩悶青年」たちに関心を強く示し、明治39年には国民としての自覚をもつように訓令を出している。自分一人の問題に固執して自分の世界に閉じこもるのは一大事だとみなされた。

 煩悶青年と恋愛を結び付ける見方を一般に流布したのは明治38年から39年まで読売新聞に連載された小栗風葉の『青春』である。この小説において小栗は結婚という社会制度の枠に収まることを堕落と捉える青年たちの論理を再現してみせた。さらに、そうして恋愛を追求したエリート青年が将来を棒に振り落ちぶれていく過程を詳細に描いてみせたのだ。また明治42年には夏目漱石の『それから』において「煩悶青年」が描かれている。

これらの新聞小説は、青年たち自身が恋愛を求めた論理はさておき、「煩悶青年」とは恋愛をめぐって「煩悶」する存在であり、恋愛こそが「煩悶」の原因であるとする世間的な見方を強化していったと考えらえる

 その結果、政府においても恋愛が問題とされる。恋愛の年齢制限、「淫猥の文学」に対する警鐘、恋愛とは配偶者選択のプロセス、といったようなことが主張された。極端な言説では、「自己」を無価値化し、「社会」にのみ価値をおく立場もあった。その代表が大町桂月である。

 大町は『中学世界』において、国家を無視した風潮を嘆き、青年の目を国家に向けることを使命とした。その方法が「男らしさ」の価値化であった。そこで主に引き合いにだされたのが儒教の君子/小人という区別である。君子というのは社会に益しようという心をもつ男であり、徳を有している。一方小人というのはそうではない。小人とは「男のなかの女」である。生まれたままの姿でいるというのは単に未熟で利己的なだけで、君子へと成長しなければならないのである。恋愛にかまけるのは小人のやることだと一蹴した形になる。

 ところが、男が恋愛の主体になることは否定したが、恋愛の対象になることまで否定したわけではない。男たるものは女に愛されるだけの資格がないといけないというのである。勉学に励み立身出世することによってはじめて愛される資格があるのだという理屈であろう。この流れにおいては、愛され、妻帯することは男らしさの証である。結果として、大町においては、恋愛というものは立身出世という男性役割の達成に従事した地位獲得競争となる。恋愛の勝者になりたければ恋愛になど興味をもたず、事業に精を出せというメッセージを発信したわけだが、このリニューアルされた恋愛像は「生物学的に」正統化されていくことになる―――まず子供を埋めるのは女であり配偶者選択をするのは女である。だから、男は女に選ばれる存在である。進化論によれば、女はすぐれた男を選ぶ(同時期、恋愛を質の高い人間を生み出すためのプロセスであると考え、人類の質を改良しようとする優生学も紹介されはじめた)。

 明治末には、恋愛をめぐって位相の異なる二つの言説が併存していた。自己を実現するもの、あるいは、生殖本能にもとづいて男として選抜される場……。このような対立を解消しようとしたのが、大正時代の恋愛論である。大正期には恋愛論ブームというべき、恋愛論の量産が生じたがその火付け役となったのが厨川白村『近代の恋愛観』(大正九年)である。彼の恋愛論は『社会的に期待される「男」であることと「自己」を追い求めることの対立を、解消しようとするものであった』。

 まず厨川は立身出世に邁進する男たちに女性の愛という、より大きな価値を訴える。他方、恋愛というものは生殖本能である性欲に根差したものであることも疑わない。つまり恋愛とは相手との関係のなかで自己を完成するものであり、子孫という「自己」を保存することであると主張したのだ。彼は自己の実現と、妻子を養うという男性役割の両立させるために、男性役割のほうも「自己」に内包されるものとして吸収した。

 この恋愛論によって、恋愛の仮想敵は立身出世を強制する社会ではなく、意に沿わない結婚を強いる因習へと一本化されることとなった。これは、真友を求める旅が親に決められない自己の意思での結婚の問題へと狭められたともとれる。そうしてそれが恋愛というものが男女間のものであるということを自明にした。