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【二回目】にんじんと読む「男たち/女たちの恋愛」🥕 ⑤

次は女性について見て行こう。女性の「自己」についての議論は明治三十年代後半頃から徐々に登場してきた。そのきっかけは明治32年高等女学校令公布であり、義務教育以上の教育を受けた女性が存在感を放ちはじめていたことである。もちろん高等女学校教育を受けられた階層は限られていたし、そこでの教育は良妻賢母にすることを目標に定めたものではあったが、それでもその教育が女性たちの知的視野を広げたことは疑い得ない。さらに明治34年には日本女子大が創立され、学徒をより長く継続する女性たちがあらわれはじめる。明治30年代後半には二十代後半になっても独身である高学歴女性のことをさす「老嬢(オールドミス)」という言葉も登場した。たとえば新聞小説『青春』では独身主義を掲げるオールドミスが登場する。彼女の理屈では、学校で活躍していた級友たちが結婚するとまるで無意味な人になってしまうからだった。そこで語られるのは「自己」を生かすためにはそういう役割におちてはいけないのだという女性像であった。とはいえ、『青春』もそうだが、独身を貫く思想には懐疑的かつ冷淡であった。

 それに肯定的にこたえたのが一部の社会主義者たちである。男だとか女だとかいう属性よりも前にある個を認めるべきだ、という。このような考え方は明治30年代後半から明治末に続々と登場してくるが、これに押し出される形で明治44年に『青鞜』という文芸誌が創刊される。創刊者の平塚らいてうが目指したのはまず女性の解放というよりも、「書くこと」を通した自己表現であった。そのことがもっとも強烈に表現されたのが創刊号に掲載された論考『元始女性は太陽であった』である。「女性は」とあるが実際その根本には、才能には男女の別はないという考えが強調されていた。男たちが立身出世競争に難色を示したように、女たちも家事に携わることを否定した。両方とも同じなのは、自己表現の道に生きるというのは性別役割と衝突することだという認識である。

 

 「自己」を求めてやまない男が「煩悶青年」として注目されたのに対して、女は「新しい女」というネーミングで注目された。だが後者の場合、それは一般メディアにおいてからかいやバッシングの対象となった。そもそも女性が義務教育以上の教育を受けること自体に反感がもたれており、女学生の姿が本格的に可視化されてくると、「堕落」「生意気」という批判がなされた。このような流れの結果、明治43年高等女学校令の改正により裁縫の授業時間数を増加させた実科高等女学校の設置に結実していったとみられる。逆にいうと、それまでは良妻賢母を打ち出しながらも家事・育児に関連した学科が目立っているわけではなかった。そのようななかから生まれてきたのが「新しい女」であり、まっさきに思い浮べられたのは平塚らいてうであった。

 ところが知識人たちは女性解放の主張自体を真っ向から否定することはできなかった。その一方で、歓迎もできなかった。男女平等の要求を否定はできないが、性別役割分業は維持したかったのだ。そこで「自己」の要求を「良妻賢母」という性別役割に行きつくように位置づけようとする動きが出てくる。それが東京女子高等師範学校の下田次郎であった。要するに外部の人や物と関係を断った内的生活が「自分である生活」であるとして、良妻賢母役割と「自己」と両立させようとしたのだ。さらに、男のほうも理想の生活をしているわけではないのだから、女のほうもある程度は受け容れなければならんともした。

 明治44年7月26日、東京の女学校卒業生同士の入水自殺事件が起こる。『婦女新聞』は社説でこれを論じ、「同性愛」が問題化される。これまで「新しい女」へのバッシングは男の領域に踏み入ろうとすることへの中傷であったが、「同性愛」については性的な堕落問題として把握された。同性への「色欲」は、異性への「色欲」に発展するものとされていたからである。また「同性愛」は「自然」から逸脱するという議論もなされはじめていた。男は性欲が強いもののおさまればまた社会生活に意識を向けるが、女はそうではないという傾向が強いとされ、生殖に重きが置かれた。だから女は妻になるのが自然なのだという理屈であった。大正2年、文芸誌としてスタートした『青鞜』が女性解放誌として大きく舵を切る。とはいえ、彼女らは男性との恋愛に至上の価値を置く路線を強めていくことになる。「自己」を開花させるという議論を同じくするエレン・ケイの思想が『青鞜』で紹介されたが、その話は、「自己保存」へと向かっていく。女の「自己」は恋愛によって実現し、家庭外の仕事において自己実現を果たす男性に対して、女は家庭内で「心霊の教育者」となることによって自己実現することができる、と主張した。