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平塚らいてうによって推進されたケイの「恋愛至上主義」「母性中心主義」に異をとなる女性たちも当然、存在した。大正3年、尾竹一枝を中心に純芸術雑誌を目指す『番紅花』が創刊。恋愛ではなく芸術を通して「自己」を追求する。そこでは女同士の恋愛を肯定的に描く作品も掲載された。またそこでは生殖という観点で男と女を規定することを肯定しながらもそこからはみ出る中性的な存在を肯定しようとするエドワード・カンターの「中性論」が紹介された。とはいえ、同誌は規模が少なく、六冊で自然廃刊となっている。これによって女同士の親密な関係性の水脈が途切れるわけではないが、大きくモデル化されることはなかった。これに対して、『番紅花』とは異なる観点から恋愛・母性中心主義を批判したのが与謝野晶子であった。与謝野はそもそも「自己」なるものが流動的で、固定的・不変の自己など存在しないという立場をとり、それゆえに女の「自己」も「母」に限定されないと論じた。彼女は女性が独立に衣食住を得、生活していくための職能を得ることを重視し、「適性」という意味で「自己」を求めた。彼女にとって恋愛も芸術も衣食住も等価であり、恋愛こそがとか、芸術こそが、とかそういう道を問題視した。だが、一方、そのようにすべてを等価にみると、「自分ってなんなんだ」という明治維新後、最初の疑問に舞い戻る。与謝野は何のために生きるのかとかそんな疑問以前にまず生活をたてろと言っているのである。彼女のこうした経済的自立という観点はその後も維持されていくことになるが、女性が結婚し子を育てること自体は自明視され続けた。
そこに先述した『近代の恋愛観』(大正10年、厨川白村)の恋愛論が登場する。それは恋愛と結婚を切れ目なく接続させること、恋愛は配偶者選別、「自己」と「男性役割」に揺れる男たちにそれを両立させる道を示す、という思想を展開していた。しかし実はここには女性に関しても論じられていたのである。それはエレン・ケイの思想を色濃く反映したもので、男性の側から「婦人問題」への回答をしたわけである。仮想敵としての「因習」から解き放たれた「恋愛結婚」が男女ともに目指され、それこそが「自己」を実現する手段だという考え方は、武者小路実篤による『友情』においても示される。そのヒロイン・杉子は明らかに、「あなたのものになって初めて私は私になれるのです」と訴え、恋愛結婚を「自己」の実現と結び付けている。
注目すべきことは、こうした恋愛論ブームが巻き起こった大正10年前後に、女性論者が参入していなかった、恋愛を論じることから撤退していたという事実である。それは彼女らが既に恋愛結婚を果たし、恋愛に興味を持っていなかったことが考えられる。そして結婚が特に自己を生かすものではなかったことに気づいた。関心はむしろ、恋愛を語るよりも、自己を生かすことのほうに傾いていたのだ。これにかわって大衆的な婦人雑誌『主婦之友』(大正7年創刊。昭和初期にかけて部数を大幅に伸ばす)が「愛」にかかわる言説を語り始める。この雑誌は『「愛される」ことで幸福をつかむというスタンス』を提示した。
創刊直後から主婦へのお役立ち情報に加え、夫を慰安することについての記載が見られる。このような記述は昭和初期にはニュアンスを徐々に変え、『夫が妻を愛さないのは、「奥様がだんな様を放つたらかしておくからだ」』とある。夫の愛を得るためのアドバイスが夫の浮気相手の代表格とされた「玄人女性」を通してなされているのは、当時は公娼制度が存在しており、浮気が半ば公然と認められていたからである。まず第一に、若々しく美しく。ここでは「玄人」の姿勢が見習うべきものとして提示される。第二に、それなりの知性。夫を飽きさせない程度の知性。第三に求められたのが、かわいらしさ。乙女の心、花嫁気分、子供らしさ。たとえば旦那が新聞を読んでいたら後ろからそっと近づいて目隠しをしてあげる。とはいえ、実際に子どもっぽい妻が求められていたわけではなく、あくまで夫の機微を読んだうえでのいたずらである。計算された可憐さを演じる技術は芸者の接客術に見習うところがある。とはいえ、妻に玄人女性になってほしいわけではなく、あくまで技巧を取り入れることが求められた。その差別はもちろん『内面的な真実』である。
内面と外面、精神と肉体、あるいは、「真の自己」と「偽の自己」を弁別し、前者に価値をおく思考とともに、恋愛という観念は知識人層を中心に希求されてきた。しかし、いざ内面の愛を表現するためにはどうすればよいのか、というハウツー言説が語られるようになると、外面的な「型」が「玄人」の世界から借りてこられたのである。
だがそのハウツー通りに定型化された「女」を演出すると、本当の「愛」ではなく、しかも男性の奴隷になっていると批判された。このようなジレンマが、徐々に形成されていった。