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(メモ)日本の歴史について

 

前日本史

 地球上に最初の人類(我々の祖先がチンパンジーボノボと枝分かれ)が誕生したのは700万年前の東アフリカだった。現在のところ、最古の人類はサヘラントロプス・チャデンシス。彼らは二本足で歩いていたが、まだ木の上を主に生活していた。木から下りたのは420万年前で、それがアウストラロピテクス。次の進化は240万年前~180万年前のホモ・ハビリス、脳が大きくなった。次いで、150万年前にはホモ・エレクトスに進化、彼らはさらに大きな脳をもち、精巧な石器と集団の狩りを行った。

 ホモ・エレクトスの一部はアフリカを出て世界中に広がっていった。有名なジャワ原人北京原人もエレクトスから分岐した彼らの仲間である。一方、アフリカ大陸に残ったホモ・エレクトスから、ホモ・ハイデンベルシスに進化。彼らの一部がやはりアフリカを旅立ち、ヨーロッパへ進出。そこでネアンデルタール人となった。そして最後までアフリカにとどまっていたホモ・ハイデンベルシスの一部が、ホモ・サピエンスへと進化したのである。

 

 ホモ・サピエンスがアフリカ大陸を出ることになったのは5万年前のことだ。

 

 とんでもないことに、ホモ・サピエンスが旅に出ると彼ら以外の人類種がすべて滅んだ。争ったのか、混血して徐々に消えたのか、それはわからない。なんにしても、ホモ属の生き残りはホモ・サピエンスだけになってしまったのである。

 日本は洪積世氷河時代)の頃、大陸と地続きであったから容易にホモ・サピエンスが進出することができた。群馬県岩宿遺跡にて石器が発見されていることから、旧石器時代の文化が日本にもあったことが示されている。日本の旧石器時代人のことはよくわかっていないが、ユーラシア大陸の旧石器人と同じようなものだったと考えられる。

旧石器時代というのは、打製石器の使用がはじまった時代のこと。

 氷河期が終わると、海面上昇のために日本と大陸は現在のように離れた。ホモ・サピエンスはそれでも海を渡り、日本にやってきた。先住民との関わりあいはよくわかっていないが、土器の使用がこの頃からはじまっており、これを縄文時代のはじまりと位置付けている。

 

 

縄文時代(1万2000年前~2300年前)

 世界史的にみれば、文字が使用されていない先史時代のうち、多くの道具を石で作った石器時代は旧石器・新石器時代に分けられる。前者は石を割って作った打製石器、新石器は打製石器に加えて石を磨いて作る磨製石器を主として使う時代である。縄文時代は日本のみの時代区分であるが、磨製石器を用いていることから縄文時代新石器時代に含まれる。*1

 

縄文文化〉とは、土器が出現した約一万六五〇〇年前から、灌漑水田稲作が開始される約三〇〇〇年前の日本列島各地において狩猟・採集・漁撈を主な生業とし、さまざまな動植物を利用し、土器や弓矢を使い、本格的な定住生活を始めた人々が残した文化群の総称で、この文化が展開した時期のことを〈縄文時代〉と呼ぶ。

  1.  草創期(およそ16500年前~11500年前まで) 旧石器時代の文化から徐々に縄文文化に移り変わっていく時期。
  2.  早期(~7000年前) 気候変動で環境が大きく変化し、定住生活の開始などの新しい環境への適応により、縄文文化の基礎がつくられた時期。
  3.  前期(~5470年前) 温暖化が最も進む。遺跡数、人口数なども増加し、早期の文化を発展継承して縄文文化が大きく花開いた時期。
  4.  中期(~4420年前) 100棟以上の住居からなる大型の集落の形成、人口が最も多くなり、さらに発展を拡大させていく縄文文化の高揚期。
  5.  後期(~3220年前) 気候が冷涼に。中期までの社会構造や精神文化などに変化を起こした縄文文化の変容期。
  6.  晩期(~2350年前) 灌漑水田稲作が開始される時期。

縄文時代の歴史 (講談社現代新書)

 厳密に土器の出現を縄文時代と解すると、縄文時代のはじまりはもう少し早くなる。土器の普及をはじまりと位置付けても、やはりそうである。ここでは「定住生活」「土器」の二つの普及を縄文時代のはじまりと考えておこう。

 技術力を結集してできた土器は煮沸具、つまり鍋としての意義が大きい。土器の長所は耐火性・耐水性である。煮るだけなら木製容器に水を入れ焼けた石を中に放り込む技術があるが一時的な煮沸であり、内容物の状態を確認しながら長時間煮込めるのは土器があったからこそである。土器による煮沸によって食料資源を多く利用できるようになった。たとえば硬い肉、草菜の植物繊維などである。また有毒物質の除去もできる。煮込むものの組み合わせによって多くの料理ができ、嗜好の多様化にもつながっただろう。

 

 

 弥生時代(~250年頃)

 縄文時代晩期に九州北部から徐々に広がっていた水田稲作が普及し、縄文土器よりもシンプルに作られた土器、大陸からもたらされた金属器が使用されるようになったこの時期を「弥生時代」と呼ぶ。

 農作物は貯蔵され、それによって富が発生し、貧富の差が生まれた。戦争が起こり、集落は敵の侵入をふせぐために高い所に作られたり濠が作られたりした。また、農耕生活を始めた人々は、農耕に密着した信仰をもつようになり、自然への信仰が起こって来た。

 争いによって奪ったり奪われたりするなかで、日本にはまとまりをもった小国が乱立する。147年から189年までのあいだ、日本では倭国大乱と呼ばれる大戦争が勃発した。弥生時代後期になると、卑弥呼を女王とする小国連合・邪馬台国が成立する。邪馬台国には王・大人(タイジン。貴族)・下戸(ゲコ。庶民)・生口(奴隷)といった身分制度があり、租税や刑罰制度もあった。一夫多妻制で、身体には彫り物がしてあったらしい。ライバルの狗奴国(クナコク)に対抗するため、大陸の魏国に贈り物をし、卑弥呼こそが日本のトップだと認めさせる。邪馬台国の位置は不明であるが、いずれにせよ、小国たちは急速に統合が進み、強大な連合政権が誕生する素地ができていたのである。

 

古墳時代(~592年)

 邪馬台国以後5世紀まで、文献から日本に関する記述が消える。しかし大和国家という強大な連合政権が誕生していたことがわかっている。それは前方後円墳の広がりから見て取れる。大和国家は全国規模であり、朝鮮半島に進出していく。結果的に失敗に終わるが、国力充実に役立った。大和国家のトップは現在の皇室の祖先であろうが、『古事記』『日本書記』(8世紀頃に編纂)にあるように、神武天皇が第一代目であるとは考えられない。神武天皇の即位は紀元前660年であり、単純に年代が合わない。ようやく年代的に実在するだろうと思えるのは第十代とされる崇神天皇である。

 大和国家の政府は大和朝廷である。大王(天皇)のいる皇室を中心として、大和国家を構成する有力な豪族たち(氏ウジ)に、職務に応じて地位や身分を示す姓カバネ(臣オミ、連ムラジ、君キミ、直アタエ……)を与え政務を分担するという統治の仕組みだ。氏は家族共同体から成り、有力な家族のリーダーが氏上ウジノカミとして族長的地位に立ち、構成員は氏人ウジビトと呼ばれた。氏には隷属民も含まれている。与えられた姓(役割)の中でも有力者が出て来て、大臣オオオミ・大連オオムラジとして政治の中心に立つことになっていく。氏上の祖先は氏人たちによって信仰の対象となり、「氏神」となっていく。

 渡来人によって漢字や、儒教・仏教がもたらされた。

 

飛鳥時代(~710年)

 皇位継承で争いになり、対立する相手を倒して実権を握った蘇我馬子だったが、擁立した天皇とも争いになったので馬子は彼を暗殺し、推古天皇を即位させた。推古天皇は初の女帝である。甥の聖徳太子が摂政となり、皇位争いでめちゃくちゃになった政治の動揺をおさえるために蘇我氏とともに尽力する。聖徳太子儒教や仏教を利用して天皇を中心とする統一的な国家組織を作る仕事に着手し、603年に冠位十二階、604年に憲法十七条を制定する。前者は、これまで世襲だった官職を1代限りとし、後者は、心構えを述べ豪族間の争いをやめるようにと説得している。

 聖徳太子が死ぬと、蘇我氏はふたたび権勢をふるいはじめる。やりとりをしていた隋という国が滅亡し、代わりに唐という国が強大化するなかで人々の危機感は募っていき、天皇中心の強固な国家の必要が痛感された。中大兄皇子中臣鎌足蘇我氏の増長に反発し、645年に蘇我入鹿を暗殺。計画には豪族も従ったことを知り蘇我の本家の者も自殺したため、蘇我氏は急速に没落することになった。

 ただちに新政府が樹立された。はじめて年号を「大化」と定める。蘇我氏滅亡から中央官制整備の649年までを大化改新という。大化改新氏姓制度を排して中央集権国家をつくることにあった。そこで土地人民の私有を排して国家のものとした。世襲を廃し、新しく官職や位階を設けた。唐の制度を積極的に取り入れ、701年(大宝1年)に大宝律令が完成、翌年に施行された。

奈良時代(~794年)

 710年、元明天皇平城京に都を移す。

 施工されていた律令制度には施行してからすぐに揺らぎが生じていた。税が重すぎて土地を放棄する農民がたくさん出始めたのだ。政府は耕した農地を一定期間自分のものとしてよいとしたのだがそれでも事態は好転しない。期限がくると結局放棄されるからである。そこで743年、聖武天皇が墾田永年私財法を発する。要するに耕した土地は国ではなく自分のものになるということで、大化改新の方針を逆に行くものだった。だがこれで農民が豊かになったわけではなく、貴族や寺社が農民を雇い入れて墾田を行ない、土地の大所有をすることになった。

 都のあった奈良は寺社の勢力が強く、桓武天皇は遷都を決定する。

平安時代(~1185年)

 794年に平安京に遷都。この後400年を平安時代という。

 墾田永年私財法によって大きな勢力をもつようになった者たちによって政治のバランスが崩れ、公私混同が一般化。国の役人が地方でも威張り治安が乱れると、それぞれで武装して武力を蓄え、自分の土地を守るようになる。武芸を専門にする人を「武士」といい、武士内部では階層的な秩序関係があり、「武士団」ができた。

 天皇にはアドバイス役として摂政・関白という役職があったが、それが円融天皇の即位から常置となる。藤原実頼が関白となり、子孫が世襲していった。天皇の摂政・関白になれば政治の実権を握れるのでその役職をめぐって争いが起きた。最終的に勝利をおさめたのが平氏であったが、別置では倒したはずの源氏が強大な勢力を作っており、遂に1185年、壇ノ浦の戦い平氏は滅亡させられる。源頼朝の勢力はもはや朝廷を上回っており、「征夷大将軍」として政治の実権を完璧に握る役職に任命させたのである。

鎌倉時代(~1333年)

 逆らうものは打倒し土地を分ける制度でうまくやっていた鎌倉幕府であるが、モンゴルから攻め入られ、結果としては打ち払ったものの、相手が外国であることから協力した者たちには褒美がまったくなかった。鎌倉幕府に対する反感で多くの人々が結束し、打倒する。新たなリーダーとなったのは後醍醐天皇であった。

建武の新政(~1336年)

 しかし後醍醐天皇の政治はすぐに乱れ、不満を起こした人々が挙兵。関東の統治を任されていた足利直義は敗走し、京都にいる兄の尊氏に救援を求める。尊氏は、倒す代わりに後醍醐天皇に「自分を征夷大将軍にしてくれ」と頼むが断られたため、ともかく関東へ行って問題の勢力を片づけたあと、後醍醐天皇とは別に独自に勢力を高めていく。後醍醐天皇は彼の討伐を命じたが、最後には破れ、京都は制圧された。

 後醍醐天皇は尊氏に降伏し、尊氏は別の皇統である一人・光明天皇を即位させ、自らを征夷大将軍として室町幕府を開設する。

室町時代(~1573年)

 降伏した後醍醐天皇はあきらめず、自分こそが正統な天皇だと主張してもうひとつの朝廷を打ち立てる。南北に二つの異なる政権が生まれたのである。しかし3代将軍の義満が南北朝を統一する。将軍の力を強めるために独裁的な政治を行うが、それが仇となって敵を作り、将軍が暗殺されるなどして遂に8歳の子を将軍に据えることとなったが、統治能力があるはずもなく、またしても「補佐役」が実権を握ることになっていく。

 補佐役を争う勢力が「応仁の乱」という大規模な武力衝突に発展させ、11年間も戦った。中央の支配力など完全になく、各地の有力者たちが野放しになる。いわゆる戦国時代への突入である。それらグループのだれもが「天下統一」を目指す中で、その目前まで迫ったのが織田信長であり、秀吉に引き継がれる。

安土桃山時代(~1603年)

 安土桃山時代織田信長豊臣秀吉の時代である。だが、彼らの時代は徳川家康に滅ぼされることによって終わる。

江戸時代(~1868年)

参考記事

(メモ)人類のグレートジャーニー - にんじんブログ

(メモ)人類のグレートジャーニー ② - にんじんブログ

(メモ)日本の古代史 - にんじんブログ

「日本史」をはじめる・縄文文化とその時代【過去記事「日本の古代史」他】 - にんじんブログ

*1:とはいえ、大陸では新石器時代に農耕や牧畜が起こり社会が複雑化しはじめたことから新石器革命として特別視されるところを考えると、農耕や牧畜の存在が確実に確認されていない為、新石器時代には当たらないともいえる。