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にんじんと読む「東洋の合理思想」🥕 ②

 初期仏教の合理的態度は、後年、「論理」へと繋がっていく。陳那(ジンナ)によって完成された形式論理学を新因明シンインミョウといい、それ以前を綜合して古因明と呼ぶ。

 インド論理学者は知識または認識の源を「量」といい、これを重視する。量がいくつあるかについては各宗派・学派によって異なり、一量説・二量説・三量説・四量説などがある。*1いくつかの認識の源のうち、純粋に論理的なのは比量(推理)であり、やはりインド論理学の中心にあたる。というかインド論理学では概念も命題も、推理論と独立しては語られない。これでは認識の合理性を十分に確保することができず、インド論理学の欠点といえる。

  •  なぜかというと、たとえば認識の統一性を保つのは矛盾律(命題は同時に真・偽をとらない)であるが、インド論理学ではこの原理が明確に捉えていないのである。もちろんインド論理学でも、推理のなかに出てくる矛盾についてはこれを排除しており、あくまで「推理」においてはこの原理を捉えている。なぜ独立に””矛盾律””という形を与えなかったのかといえば、それはやはり目的が解脱という実践にあり論理はそのための方便にすぎず、矛盾律などの命題を””真理””と捉えることは解脱を妨げるだろう。

 インド論理学の頂点は新因明である。こちらも量を詳論する。陳那は二量説をとり、「現量」(直接的知覚)と「比量」(推理)である。現量は概念規定される以前のもので、言語を離れる。実は悟りという体験も現量に属する。つまりこれは論理の外にあるものであり、非合理なもの。しかしこれがなければどのような認識もない。『非合理なくしては合理性はない』ということだ。

 現量には四種ある。五識身ゴシキジン、互俱意識ゴグイシキ、自証分ジショウブン、修定者シュジョウシャである。第一には五感、第二には五感を統一するもの(意識、統覚)、第三には感情および自意識(末那識)、最後は解脱した人の直接体験でいっさいの煩悩を消した知覚である。『認識は非合理から出て非合理に達するものであり、その過程が合理的思考となる』。この過程、架け橋こそが比量である。

 

 

*1:五や六もあるが、『それらはあまり重要ではない』(p37)