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にんじんと読む「東洋の合理思想」🥕 ③

 陳那によると、認識の対象は自相ジソウと共相グウソウに大別される。自相とは個別性、共相とは一般性をいう。前者を認識するものが現量、後者を認識するものが比量である。比量とは推理のことであり、推理は自比量と他比量に分かれる。自比量とは『論者が自己自身のために正しい認識を得るための推理』(自分の心の中での推理)であり、他比量とは『論的に正しい認識を得させるための推理』(推理を言葉にあらわして他人に示す)である。現量は言語以前のことであるが、自比量は言葉を媒介にして成立する。陳那が分別(判断作用)を認識源として考えなかったのは、インド論理学全般に共通の特性であるといえよう。

 インド思想は合理性を追求し陳那によってインドにおける形式論理学が確立されたが、ただ、この合理性はいつも解脱という非合理性を見据えてのことである。この合理性と非合理性の関係を追求したのが竜樹の『中論』であった。竜樹は合理的思考の突き詰め、その先に自己矛盾を見出し、合理性によって合理性を否定するのだ―――これはソクラテスの対話に似ている。彼は相手の主張のなかにひそむ矛盾をついた。だが竜樹と異なるのは、ソクラテスが求めていたのは正しい知だった。竜樹が目指すのは合理性を放棄して非合理性へかえっていくことである。

 竜樹よりおよそ200年後、世親が生まれ、唯識思想を完成する。これは『解脱の真理を研究する仏教心理学』である。「識」という心のはたらきの一番奥には阿頼耶識があり、これには過去のあらゆる経験を種子として含んでいる。だから現在の意識現象はいつも過去の影響を受ける。そしてもちろん、そのつど阿頼耶識に影響を与える。この相互関係を持っている。だからすべてはいつも流れ、恒常不変の実体などない。これを実体だと勘違いすると苦悩が生じ、これを煩悩と呼ぶ。すなわち煩悩の原因は実体化にある。

 実体があるとする誤った判断を「妄分別」という。これを否定し、唯識という現実を認識する段階がある。分別性、依他性、真実性である。分別性とは妄分別の基本的形態であり、事物を孤立的・実体的に見る判断である。依他性とは実体があるというその考えがそれを考えるという判断作用によって成立しているということである。そして真実性とは依他性も独立しているわけではないということである。この三段階は世界そのものは何も変わらずただその見方を変えていく。この「見方」を繰り返していると、徐々に阿頼耶識にその経験が蓄積されることで、実体への固執がなくなっていく。唯識はこうして、解脱に至って完成する。