にんじんブログ

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にんじんと読む「なぜ、私たちは恋をして生きるのか」🥕 ①

恋愛ってなに?

 恋愛とは、「君じゃなきゃだめ」なものである!

 個人vs個人であり、独立した他者と理解し合うことである。「自分の存在の単独者性」の発見である。個人としての自己の発見である。だからこうした恋愛観を持っている人は、吉原遊郭で行われていた「いき」の関係性をほんとうのものとはみなさない。遊里は『社会のひずみを受け止め、発散させる装置』として機能していた。いわば社会の外側なわけで、実生活と地続きで歩いて行ける場所にあってはならない。もし実生活と地続きなら発散などできないだろう。そこで展開される男女の関係は虚構である。遊戯的な男女関係である。

 お前は私に惚れているのか。そう問われて、遊女は誓いを立てる(心中立て)。これに対して客が「ほんとにほんと?」とは聞かない。『本当にみえる嘘、嘘とわかりつつ信じる真心、虚実が入り混じった状態を楽しむことこそが大切』だからだ。遊里であるべき男女関係を説くが「色道」である。男と女は虚構の恋を演じるのだ。この美意識が「いき」である―――これが冒頭の恋愛観を持った人々には批判の対象になるのは、きわめてわかりやすい。あたりまえだが、彼らは演じているのであって、フィクションに過ぎない。役の向こうにいる自分と相手の姿が見えないのに何が恋だ馬鹿野郎、と言う具合である。とはいえ、やっている当人たちはまじめである。コスチュームプレイで看護師と患者を演じるのとは違う。これが虚構の恋なのか、現実の恋なのか、そんなことは考えない。『無心に虚と実のあわいにたゆたう』のが「いき」である。

 とはいえ、粋というのが「たゆたう」ことで、恋というのが「たゆたわない」ことだと見るのはおかしい。そもそもふつうの恋愛を観察してみても、ここからが真実でここからが虚構だと線を引くことなどできるのか。いったい、いつ恋ははじまったのか。恋を自覚する前の駆け引きは仮面をつけた単なるお遊戯だったのか? 私たちが恋に感じる「リアリティ」はなんなのか?

 

私がこの本を通して目指したいのは、彼らのもう一歩前に遡ること、つまり、恋という出来事が動き出す瞬間を捉え、その瞬間が変質していくプロセスを追いかけることである。そこから、恋とリアリティがつながっていくメカニズムを明らかにして、恋と自己の複雑な結びつきを解きほぐしていこう。

なぜ、私たちは恋をして生きるのか―「出会い」と「恋愛」の近代日本精神史