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現象学の(不完全な)まとめ旅

 

 

スタート地点(学問の基礎→直接経験という起源)

 フッサールのそもそもの目的は「諸学問の基礎」を打ち立てることだった。本人も自らを『新デカルト主義』というほどに、これは哲学者デカルトの壮大な計画と似通っている。フッサールが「基礎」というものに関心があるのは、彼のキャリアが数学からはじまったことと関係がある。その頃、数学はその基礎づけに揺れていた。

 彼は「数」というものの起源が「数える」という心理的作用にあるという見方に与した。この論法でいけば、数学だけでなく論理学的諸概念もまた、心理的作用に還元されることになる。これは「心理学主義」と呼ばれる。数学も論理学も、心理学の一部だと主張するものだ。しかし、すぐに違和感を持ち始める。たとえば矛盾律心理的諸事実の帰納的結果なのだろうか。あれもそう、これもそう、だから全部そうだろうという飛躍した推理で、蓋然的なものなのだろうか。フッサールは論理学をこのような蓋然的な身分に置くことを認めない。

 論理的諸法則は論理的諸概念にもとづく。論理的諸概念は心理的作用によってできあがる。だが、論理的諸概念はこのとき、単なる心理的形成物以上のものとなっているはずだ。だが、だとすると、フッサールは主観的にはじまるはずの概念が「客観性」を獲得できるのはなぜなのか、その作り上げられ方を説明しなければならない。だがこうした基礎的な議論に共通する難題は、それらを用いた諸事実を一切使用することはできないということだ。諸科学は数学と論理学に支えられているのだから、その基礎づけを考えるということは、それらすべてを使えないということになる。私たちがはじめるべきスタート地点はいったいどこなのか? それは「直接経験」だった。

 この直接経験を扱おうとした人に、E・マッハがいる。彼は経験主義者であり、実証ということを重んじていた。片目を閉じてものを見ると、下図のような光景が見える。この「マッハ的光景」こそ、私たちにとっての「見る」という経験である。それは決して、しかじかから光が反射して目に入り神経を刺激して云々、といったようなものではない。このような経験こそが根源的で、視覚経験を説明するのに物体と自分の目を書いて説明するのはそれよりあとのことなのだ。

f:id:carrot-lanthanum0812:20220206211555j:plain フッサールもまたこうした経験が根源的だと考えた。これを根源的と考えると、いま私たちがふつうに過ごしている感覚とはずいぶん違っている。たとえば富士山は存在していると思っているが、目の前に見ていたって、富士山が実際にそこにあるかはわからない。自分以外の人間が自分と同じように感じ、考えるのだとなぜ信じているのだろう。もっといえば鏡に映るような自分の存在だって怪しい。あるのはただ、上図のような光景だけである。

 そうであるから、私たちはマッハ的光景に戻っていろいろなことを語り始めなければならない。この直接経験という始原のことを「超越論的主観性」と呼ぶのは、わたしたちのふつうの態度における色々な確信・判断はマッハ的光景を超越したものであるからである。私たちの自然的態度における確信はそれ自体を超越しているという自覚のもとで、マッハ的光景たち=超越論的主観性に戻り、そこから説明しようとする。これを「超越論的還元」という。まとめれば、私たちがいつもそれ以上のものを捉えていることを自覚し(超越論的態度)、いろいろの超越を超越論的主観性に立ち戻って説明することを超越論的還元というのである。

 

 用語: 超越論的主観性=直接経験の領野、超越論的還元、超越論的態度

 

 

直接経験=志向的体験

 私たちの知覚はいつも超越を含んでいる。たとえば正方形が書かれた紙を見てみよう。たいていそういうものは斜め上から見るものだが、このとき、その図形は平行四辺形になっている。マッハ的光景に戻れば、まさに平行四辺形でしかない。紙のまわりをぐるぐる回ってみても正方形が出現することはない。だが私たちは平行四辺形のことを考えることはほとんどない。私たちはどの角度から見ようがそれを正方形だと思っている。『私たちは、「現出」の感覚・体験を突破して、その向こうに「現出者」を知覚・経験しているのである』(これが現象学だ (講談社現代新書) p56)。

 この現出者はさまざまな現出たちのなかで、いつも同一性を保っている。正確にいえば、この同一性は現出の多様性によって構成されているのだ。フッサールは諸々の現出のことを『記号』と呼んでいる。それは言語記号が犬という対象を示すように、諸現出が現出者を指差すからである。直接経験における知覚は常に「記号」によって媒介されているため、直接経験は直接的ではないのだ。だが私たちにはこれ以上の直接性は望めない。直接経験は平行四辺形を超越して正方形という現出者を捉える。この超越するというはたらきが「志向性」と呼ばれ、直接経験はこれゆえに「志向的体験」(=意識)とも言われる。現象学的にいう意識というのは単に気づいていることに限らず、ここで問題になっているのは基本的に実践的なものである。『すなわち、意識はしばしば、そして派生的には、見ること、あるいは視ることであるにせよ、根本的に一つの行うことである』(使える現象学 (ちくま学芸文庫) p.31)。非主題的でふだんは表に全く出てこない部分、たとえば正方形という現出者に対する平行四辺形がその例になるだろうが、それが意識には含まれる。志向性は「~についての」意識という風になにかに目がけるもの(正方形に目がける)であるが、もし平行四辺形という諸現出と正方形という現出者との間の関係を忘れるならば、ひどくつまらない概念になるだろう。

 

 私たちは正方形を「直観」する。同じように、机やパソコンも「直観」する。直観とは、なにかを直接的に捉えるということである。たとえば机というものを知覚したとき、私たちにはその机が与えられる。机というものを想像したとき、私たちにはその机が与えられる。これを、机を直観するというのである。知覚することは想像することに比べて、””机そのもの””というありさまで与えられるため、原本的直観と言って区別する。だが私たちが受け取るのはこうしたモノばかりではない。

 机というものを知覚によって捉えることを考えよう。直観されるのはまさにその個別的対象たるその机である。そしてそれは実在的・個体的・時間空間的・偶然的な「事実」にすぎない。だがそこには「本質」が蔵しているのだとフッサールは言うのだ。それはたとえば他の机を見ることなどを通して、それらの共通なものとして取り出されてくるものである。こうして意識に与えられるものを、フッサールは「本質直観」と呼ぶ。つまりモノに加えて、「本質」もまた直観される対象なのだ。本質直観の手続きはこうなる。

  1.  知覚や想像における範例から出発
  2.  個別に、もしくは他の対象と比較
  3.  諸々の対象に共通なものとしての本質を取り出す

 経験的なものから直観された本質は、それ独自の法則を持つ。その法則は私たちが恣意的に決められるようなものではない。このように考えすすめてきただけでも、「事実学」と「本質学」という学問の区別ができる。「本質」についてより詳細に分類してみよう。

  •  犬がいる。これは「犬」である。この「犬」という本質は犬を含むので、これを質料的本質と呼ぶ。一方、「一個の」とか「一匹の」とか、あるいは「数」といったようなものは犬の場合とは区別される。これは質料的本質の形式、あるいは形式の形式を捉えたものであり、形式的本質という。代数学は形式的対象としての数を形式的に取り扱う学問であるから、これを形式存在論といい、代数学はその典型的な例である。この代数の考え方を用いて、まずことばを名詞だとか形容詞だとか、それらの結合についての規則を与えたものが形式命題論である。形式存在論はどうあれ「代数的」であり、形式命題論も形式存在論である以上、代数的であるから、非常に似た法則をもつ。これによってまったく無意味な言明は放り出される。真理とか真理でないとかそういうことを決する以前に、まずここで放り出されないという身分が必要であろう―――これがフッサールの論理学の大枠の構想である。彼は概念の「起源」に目を向けたので、完成された形では示されなかった。
  •  もうひとつ、質料的本質については「類」「種」の段階構造を持つ。犬は哺乳類であり、哺乳類は動物である。この系列の最低種(スペチエス)は、犬の中でも「秋田犬」といったようなものだろうが、これも個体ではなく質料的本質であることを注意しておく。スペチエスを出発点としてのぼっていくその先には、「生物」といったような最高類に到達するだろう。この最高類を、「領域」と呼ぶ。彼は領域には「物質的自然」「生命的自然」「精神世界」の三つあると言った。広義の物理学・生物学・精神科学の区分がここに生ずる。つまり、学問の区別は領域的区別によるのだ――――精神世界は生命的自然なしにありえず、生命的自然は物質的自然なしにありえない。こういう関係を「基づけ」という。一方、私たちは自然科学的態度よりも人格主義的態度(あるいは自然的態度)が先行する。つまり、私たちが捉えるのはまず単なる炭素の塊というよりも、「鉛筆」なのである。こういう「鉛筆」という見方に慣れた後で、自然科学的態度を身に着けることになる。この自然的態度における根源的な精神世界のことを「生活世界」ともいう。物質的自然や生命的自然はこのとき派生的なのである。
  •  フッサールは最晩年に、時間空間に依存しない「本質」がその根源に「事実」をもつことを認めた。この特有の地位を持った事実のことを「原事実」という。「原事実」がふつうの事実とは違うのは、それが事実でなかったら経験ということ自体を脅かすようなものである。パンダはああいう模様をしているのは事実であるが、別にああいう模様をしていなくても経験そのものが成立しなくなることはない。こうした「原事実」を扱うのが「形而上学」とフッサールは呼ぶ。しかし、彼はこれを十分に展開できたわけではなかった。

<まとめ>

 諸学の基礎は論理学や数学といった学にある。論理的諸法則は論理的諸概念から成り立つ。そして論理的諸概念は直接経験から説明されなければならない。概念や命題や思念はその一切が直接経験を起源に持つ。直接経験は直観されうる。しかし、それは普通覆い隠されている。なぜなら私たちはふだん、自然的態度によって、直接経験を歪めたかたちで受け取っているからだ。だからこそ直接経験を直観するためには覆いをはぎとっていく努力が必要となる。この努力、つまり方法こそが「現象学」である。

 直接経験(あるいは「事象そのもの」)は、マッハ的光景に非常に近いものとして想像できる。対象から光が反射されて目に入り…といった描像はマッハ的光景のあとにイメージされたものにすぎず、マッハ的光景こそが出発点だったはずなのだ。とはいえ、直接経験は完全にマッハ的光景と一致するわけではない。なぜならマッハ的光景は、””足りない””からだ。このことは紙に書いた正方形のまわりをまわってみることで理解される。そもそも紙に完璧な正方形を描くこと自体難しいのだが、それを適切な角度から見るのはほぼ不可能に近い。それで私たちの目にはいくらうまくいっても平行四辺形程度しか見えない。つまり平行四辺形を媒介にして正方形を見ているのだ。そしてたいていの場合、平行四辺形は主題として語られない。だが平行四辺形という「現出者」にいろいろな平行四辺形という「諸現出」が現れないことはありえない。だがやはりなにも現出者がなく現出だけがあるというのもありえない。マッハ的光景はその意味で最も直接経験に近い。だがこの諸現出と現出者の関係をおさえなければ、大切なことを見逃してしまう。つまりマッハ的光景は平行四辺形は描いてくれるが、私たちが実際に捉えている正方形を見落とす。

 こうして私たちが捉えるべき「事象そのもの」の姿が理解される。「事象そのもの」とは、「現出」との不可分な関係性のなかで捉えられたかぎりでの「現出者」なのである(意識の自然―現象学の可能性を拓く p.58)。そしてそれゆえに、これを直観するときの直観とは、「本質」も含むのである。

 

余り 

 最も基本的な直接経験は知覚的な直観である。

 たとえばDOGというのは犬という「意味」をもつ(「意味」は「対象」ではない。単なる単一の犬(対象)というよりも、”犬というもの”を示す)。意味をもつようなことばを「表現」という。「ワーテルローの敗者」という表現の意味はナポレオンという対象を媒介する。正方形の周りをぐるぐる回ると色々な平行四辺形があらわれるように、ナポレオンにも「ワーテルローの敗者」「イエナの勝者」等々の媒介があらわれる。このとき、ナポレオンのことを「基体」という。正方形に一切の現出・見えがないなどということがありえないように、一切の意味と切り離された基体など存在しない。これゆえに基体と意味とは二つでひとつであるといえる。これを「ノエマ構造」という。「意味」は「ノエマ的意味」と呼ばれる。ノエマ的意味を基体にまとめあげるのにも意識が働いているが、ノエマと対比されるときにはこの意識の働きのことを「ノエシス」という。

 秋田犬のポチ、セントバーナードのジョン、チワワのチビを見る。彼らは色も大きさも全然違う(ノエマ的意味が全然違う)。私たちはそういうものを必要不可欠な成分として持たない「犬」という本質を直観している。もちろん本来はもっともっとたくさんの「犬」を見る必要があるだろうが、世の中の人全員がそこまで犬に遭遇するわけではない。本質直観は、単に知覚だけでなく、空想でもよいのだ。空想的な自由変更をつうじてポチやジョンなどの事象内容を持った本質=形相を直観することを「形相的還元」という。

 私たちの見る対象のいろいろな側面には、空間・時間的なものも含まれる。ポチは公園の前で散歩していることもあれば、公民館の前にいることもある。昼間でも夕方でもありうる。二年前の夕方に公園を散歩しているポチは過去のポチである。この「時間」「空間」がなければ、いわばアリバイのように、個体を個体として同定することができない。だが存在の構成に時間や空間が必要なら、存在の前に「時間」「空間」を構成していなければならないことになる。いったいどういうことなのか。