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にんじんと読む「なぜ、私たちは恋をして生きるのか」🥕 ④

日常的な他者との「出会い」

 和辻哲郎は、人間は「間柄的存在」であると言った。たとえば生徒の前では、教師は教師としてふるまう。タクシーに乗り込むときはタクシー運転手は見知らぬ他人ではなくまさしくタクシー運転手であり、知らない人と密室に閉じ込められるとは誰も思わない。互いを信頼し、不確定な未来をそれぞれの間柄によって補うことで日常は安定するのだ。

 とはいえ、完全に初対面の相手の場合はどうなのか。和辻はこれを「それまで知らなかった」という間柄だという。今まで知らん奴同士の関係性がそこにあって、それに基づいて行動するのである。この意味で和辻に本質的な意味での””未知””というものはなく、そもそもの間柄を構築するということに苦しむことはない。赤の他人だという関係性であるにしても、和辻にとってはともかく二人の間に関係があるのだから。たしかに初対面のそいつとは赤の他人かもしれないが、赤の他人だという領域を飛び越えて未知なるものになってしまうということは一切ないのか? たとえば両親が離婚してしまい母が母であることを捨てて出て行こうとするとき、これまでの母と子という関係は役に立たない。そこにいるのはまさしく「他者」である。だが、「赤の他人」でもない。間柄が壊れる時に、他者が姿を現す。

 たとえば「恋」は、同僚とか友人とかそういう間柄だったところを外れたところで発生するように思われる。そしてその規定された間柄を壊すのは、突然の、予想もしない何かである。日常の間柄からは捉えられない未知なるものに人は戸惑う。

 

 日常を壊すものを私たちはあらかじめ知っておくことなどできない。それは「偶然」に到来するのである。偶然性の問題 (岩波文庫)は『「いき」の構造』の次に書かれた九鬼の主著である。偶然性とは必然性の否定であり、必然性とは、『ものの性質上の規定であるところの同一性ということを、その存在する仕方としての様相の見地から言い表した』ものである。必然性とは因果連鎖だけでなく、その存在の同一性を意味しているのだ。

 たとえば庭を掘っていて、埋蔵金が出て来たとする。庭の穴掘りは庭の手入れという一般的概念であるが、そのなかで埋蔵金が出てくるのは庭の穴掘りにとって例外的出来事であるといえる。これを「定言的偶然」=一般的概念に対する偶然的徴表という。要するにこの出来事は、一般的概念や因果連鎖によっては捉えることができない。しかし一方、ずいぶん昔に誰かが埋めたのは間違いないのだから、その出来事は必然的だったとも言えるのではないか。だが埋めたからといって掘り出されるとは限らないともいえる。これを「仮説的必然/偶然」という。この因果連鎖をどこまでもさかのぼった先に在るのが「離接的必然/偶然」である。

 和辻の哲学はある間柄という「同一性」の運動であった。友達は友達として安定的にそうあり続ける。だが偶然性はそれを破壊する。私たちはそこから必然性を探しあて、何とか安定しようとする。偶然は無知によるものだと考えるのだ。だがそうやってどんどんと必然性で埋め尽くしても、結局最後には「なぜこの世界は存在するのか」にぶちあたって終わる。そう九鬼は言う。この根本的な偶然性に気づかず、世の中を必然的に捉えるのは狭い見方であり、偶然に驚くのは無知ではなくまさに現実を見据えているからこそそうなるのだ。

 離接的偶然、つまり根本にある事実が偶然的なものだとみれば、すべてのことは最終的に根拠づけられないものとなる。ある人が教師であることはまったく偶然で、偶然の積み重ねによってそこまで来た。だが実際生きて行くのには、その偶然を引き受けなければならない。何かしようと思ってどうにかなるかは偶然であるが、それを積み重ねるしかない。………のだが、私たちはきわめて安定的な日常を送れている。この安定的な日常のメカニズムこそ、和辻のいう間柄的存在というありかたである。

 偶然性が目立つことはない。私たちが偶然を感じるのは、「こうなるかもしれなかったが、こうなった」というときである。京都で暮らす以外に選択肢がないなら、京都で過ごすことに偶然性など感じられるわけもない。ここに可能性と偶然性の関係がある。可能性がまったくなかったら駄目だが、可能性が小さければ小さいほど偶然性のインパクトはでかくなる。

 

偶然が教えること

 『偶然の驚きは、いま自分に与えられている現実が多くの可能性の中のひとつにすぎない』ことを教える。私たちがしかじかの境遇にあるのは偶然である。私たちはそれを忘れて、明日も当たり前にくるものと信じている。だがそれはいくつもの偶然が折り重なったようやくたどりつくところなのだ。

 九鬼は偶然こそが未来に向かって可能性を展開し得る現実の力であるとする。なぜかというと、日常的な安定した場には新しい未来の形などどこにもないからだ。夫婦がけんかして「まあ夫なんてこういうもんだ」と言ってしまえば一応落ち着くが、「他にやりようはなかったのか」と他の可能性を考えることで新しい未来の形が開示される。まさに『偶然において、私たちは無限の可能性へと開かれる』。

偶然性の根源的意味は、一者としての必然性に対する他者の措定ということである。必然性とは同一性すなわち一者の様相にほかならない。偶然性は一者と他者の二元性のあるところに初めて存するのである。……個物の起源は一者に対する他者の二元的措定に遡る。邂逅は独立なる人間の邂逅にほかならない。

 偶然性の核心は他者との出会いにある。これこそが人が自己として生きるはじまりになるのだ。関係が動的に形成されていくその様子こそ、九鬼が「いき」において見ようとしたものである。「いき」という一見面倒な態度をとるのは、他者こそが「起源」だからだ。