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現象学・志向性について

 心的現象/物的現象の区別は「心」「物」という二つの実在に関わる区別ではない。それは意識の「作用」とそれが作用する「対象」との区別なのだ。

 心的現象は「作用」なのだから、必ず何かに「作用」する。では「作用」自体は対象となりうるのか。もちろん、なりうる。しかし、その意識のされ方はそれ以外の「対象」に対するものとは異なっている。私たちはふだん音を聞くとき、聞くことそれ自体はふつう意識されない。つまり非主題的であり、背景に退いているのである。心的現象という用語は①対象への関係性と、自らの②非主題的なあり方を指し示す。

 しかし心的現象・物的現象という言い方はどうしても「心」「物」の二つの実在に基づく伝統的な用語法と紛らわしい。そこでフッサールは心的現象を「志向的体験」と呼ぶことにするのである。これは上記の二つの点を一挙に言い表したもので、①志向性、②体験、である。たとえばテーブルに紙が置いてあって、正方形だ、と思う。しかしふつう、私たちはそれを斜めから見ているのであって、見えているのは平行四辺形である。正方形は対象であるが、体験はされない。体験されるのは平行四辺形という現出とそれを見るという作用である。この現出は体験されるが知覚はされない。私たちはつねにそれを正方形として捉えるからである。

志向的体験とは、作用が(現出をつうじて)現出者/対象に向かっているということであり、ただし、その作用そのもの(や現出)は、意識されてはいるが対象にはなっておらう、非主題的である、ということを言い表しているわけである。

意識の自然―現象学の可能性を拓く

 だから心的と物的の二つの実在をいかにつなぐか、という問題は起こらない。そもそも志向的体験は対象へと向かう性質を本質的に備えているのだ。

 フッサールは志向的体験を外部から観察することをやめる。というのも、なにかを観察するためには観察する前に「なにか」を構成する志向的体験が必要になるからだ。しかしそもそもとらえたいと思うのは、まさにその構成の場面である。だからそもそも志向的体験というのはいっさいの前提であって、外部がどうとか内部がどうとかではない。机を見る時、その場面を外部から見ることなどできない。内部と外部を設定すること自体、状況を外部から見ているのと同じである。