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にんじんと読む「なぜ、私たちは恋をして生きるのか」🥕 ⑤

 

「なぜ、そこまでして人は他者を求めるのか」

「他者こそが「私」を「私」たらしめる存在ゆえ」

 とはいえ、恋においては特定の他者を求める。ただその裏面には、つねに自己という存在への希求が隠れているということだ。

 九鬼は『情緒の系図』において、人間の情緒を三つに分けた。嬉しいとか悲しいとかいう自己に関わる出来事に対して持つ情緒である「主観的感情」、自己以外のものへと向かう愛とか憎しみとかいう「客観的感情」。この二つは快不快を中身として持つ。しかし、欲や驚きといったものは快不快ではなく緊張・弛緩という方向性をもつ第三のものである。

 九鬼は人間存在の根本を「欲」と「寂」に見る。彼曰く、「欲」とは、対象の欠如に気づき可能的対象へ向かう働きである。人間が欲を持つのは自己の存在継続という目的を持ち、自己保存の栄養衝動・種族保存のための性衝動に基づく。欲は欠如の感覚を伴うが、この欠如の自覚こそが「寂しさ」である。だから寂しさは己の身のあり方を捉えなおさせるものであるから、寂しさを感じる=個体性を感じることである。寂しさにおける個体性を際立たせる現象こそが「恋」である―――だから、九鬼は「恋」を「愛」よりも「寂」「欲」と結びつける。つまり「恋しい」ということである。それは他者を求めることである。

 逆に言えば、そこには他者の欠如がある。その欠如のために、自己は不完全なのである。九鬼はプラトン『饗宴』を引いて、人間は他者と結ばれることによって「全きもの」になろうとしているという。アリストファネスの語る所、人間はもともと全一なる存在であったが、引き裂かれてしまい、つねに片割れを探している。恋しいと他者を求める中で、自己と他者は出会う。そこで自己のリアリティを感じる。そして人はその他者との合同を求める。合同とは、自己を自己として、他者を他者としてそのまま合同することである。

 だが『自他の分離を失うことなく合同する』ことは可能なのか。合同するとはつまり結ばれることだが、もしも「安定」した関係=「間柄」になってしまえば他者性が失われてしまう。だから恋とはそもそも無謀な試みだったのである。そして「いき」とは、これに対する九鬼なりの回答である。他者を手に入れることはできないと諦め、無意味さを痛感しながらも他者へと向かう。ここには自己への関心を越えた他者性への慈しみがある。九鬼はそれを「愛」と呼んだ。

おわりに

 最後はかなり駆け足になってしまった。にんじんなりにまとめておく。

  •  「自己存続を欲する」ことが基礎としてまずある。たぶんこれは生物学的に、自然とそういうふうに出来上がっている、という根拠づけがあるんだろう。人間は存続させるべき「自己」を知っているが、これはもともと他者との関わりによって構成されたものである。しかし他者がいないと自己の輪郭が曖昧になってしまうので、人間は不安に駆られて他者を求め、その欠如を知ることで寂しさや恋しさを覚える。
  •  ここまではいいとしても、特定の他者に向かうと考えるのは飛び過ぎであるように思う。一対一とか、一対多とか、男対女とか、そういう形式を上の議論から導くことはできない。それは生まれた文化によるもので、つまり、先人たちが用意してくれた「真剣に他者と関わる」枠組みなのである。ここには「恋」もあるだろうが、他にも「事業」などもあるのではないかと思われる。とはいえ、「性」と結びつく「恋」のほうが一般的なものになるだろうことは想像しやすい。
  •  とはいえ、実際の現象として、「恋」によって他者の存在を強烈に意識し、同時に自分がどう見られているか気にし始めた経験がある人も多いだろう。ラブコメでもよく見かける展開である。「恋」は「間柄」という安定的な関係になく、ゆらめく。だからこそ自分でも知らなかった自分の新しい側面が見える。しかしそもそも不安定な関係であるから、安定した関係を求めようとする。いわゆる恋愛はこの安定した関係を終着駅とするものだが、しかしそこではもはや、本来の目的である「特定のだれか」をそのまま「特定のだれか」として、他者として受け入れることはできなくなっている。要するに、他者と呼べるほどわけがわからんわけでもないので、刺激がないわけだ。だからそもそも恋愛という営みは最初から達成できないことが約束されている。
  •  そこで「いき」が登場する。それはずっと自己と他者がお互いを求めて踊り続ける舞台である。他者は他者であり自分にはどうにもならず、決して手に入らず、どこにもたどりつかない営みを無意味と感じながらも、反面、相手を求め続ける。他者性への敬意ともいうような、「慈しみ」。これはもはや特定の相手にとどまらない普遍的なものであろう。九鬼はこれを「愛」と呼んだのではないか。

 ところで別の話になるが、こういう本も読んだ。

carrot-lanthanum0812.hatenablog.com

 九鬼の流れでいくと、そもそも「自己」を求めるのは根源的な衝動なのだから、明治に至って日本人が「恋愛」を求め出すのは妙な感じがしないでもない。むしろそれまでは「役割」や「身分」が自己の姿を映し出していたがゆえに、 自己ー他者 という「独立した二つ」「真友」という発想には至らなかったのだろうか。そこから「恋愛⇒結婚」という流れに至る事情は、この本の通りと思う。

 読んだこといろいろ忘れてるのでまた見直さないといけない