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幸せな世界の幸せ者と不幸せな世界の不幸せ者(日記)

2022.03.19記

 『ぽっかぽか』というドラマでは、田所家が出くわす色々なごたごたを描いている。この三人家族はまさに幸せそのものであり、この作品について検索すれば、田所家三人の笑顔ばかりが出てくるだろう。とはいえ、自分がこの作品の(にわか)ファンなのは、みんなニコニコハッピーだからではない。とんでもなく重い問題と現実にいそうな面倒な隣人たちのなかにあり、戸惑いつつも、彼らはそこでハッピーにやっているから好きなのだ。田所麻美さんの裏表のない純粋なところにみんな惹かれるというありがちなパターンではあるものの、厄介な隣人たちの「良いところ」を引き出して、最後に丸くおさまるのは素晴らしい。

 『ARIA』というアニメがある。このアニメは主人公(?)の超ポジティブ人間が恥ずかしいことをいって現象をきれいに解釈するのがいつものパターンとなっている。それで見ているほうもいい気分になったりできる。ARIAを見た後は世界がキラキラして見えるという経験をしたファンもいると思う。とはいえ、ARIAの良さの根源は主人公の明るさにあるわけではない。あの作品の良さを支えているのは、「マンホーム」という完全に合理化された地球の存在なのである。主人公の灯里は合理化されたマンホームから、いろんなことを自分の手でやらなければならない不便な星AQUAにやってくる。そこでキラキラしたことを色々言うわけだが、果たして灯里はマンホームでも同じような人間だったのだろうか? そうではないと思われる。というかむしろ、灯里はマンホームに嫌気がさしてAQUAに移住してきたとも考えられそうなほどだ―――この背景があるからこそ、灯里の言葉は重たく響く。逆にマンホームがなく、灯里がAQUA出身だとしたら、「もともと頭がキラキラしたひとがキラキラしたことを言っているだけ」になってしまい、ありがたみは薄くなってしまうだろう。マンホームは話のなかで全く絡むことがないが、この作品が順調に運航できるのは完全に地球のおかげである。

 ARIAによる世界が輝かしく見える現象は、「ARIAは現実ではない」というまさしく現実によって打ちのめされる。灯里のように解釈できないという能力の問題もあるが、実際問題、灯里の前にあらわれるやつは揃いも揃って善人ばかりだ。ARIAカンパニーには苦情は入らないのだろうか。セクハラおやじの一人ぐらいはいそうなもんだ。AQUAの世界でもいろいろな「現実」が描かれたりするが、基本的にあそこにいる人々はみんないい奴である。陰口を言ったりするやつも、悪いことするやつもいるが、ほとんど例外的で、積極的に干渉してくることは少ない。商売をやっているのに税金に悩んでいるところを一度も見たことがないとはどういうことだ。確定申告とかしてるのかな……。

 ARIAの現実はマンホームですべて尽くされている。しかもそのマンホームはめったに話に出てこない。だから結局こう思われることになる。「それって、AQUAだからですよね?」たとえば確定申告で困っているときに、「ああ、これが私の一年間のお客様との出会いだったんだ、ってうれしくなりますよね」とか灯里に言われたら「いや、お前やったことねえだろ!」みたいになるに違いない。ARIAを下支えするマンホームと、現実味がハッキリとは出てこないAQUA……この星で読者に現実を叩きつけるのはアリシアさんの結婚かもしれないが。ああ、見えなくてもやることやってんスね、みたいなアレです。*1

 幸福な世界で幸福になれるのは当たり前である。逆に、不幸な世界で不幸なのを見せられても当たり前としか思えない。親の顔より見るレベルでカツアゲが行われている作品世界でカツアゲにあっても別に珍しくもなんともないのと同じだ。最初はびっくりする。たぶんこれが「ゾンビもの最初は面白い現象」の原因だろう。やっぱり目を背けたい現実がいっぱいあるけれど楽しくニコニコ暮らしているのが、いちばんおもしろい。幸せな世界で不幸になっていただいても別にいいが、そんな話は読む気がしないのではないか。

 

 ARIAの映画、CREPSCOLO見ましたよ。

 

 

 

 

*1:これによってこの作品は「敢えて描かない」ことがあるとはっきりわかり、他の登場人物たちも軒並み危険牌となったのだった