にんじんブログ

にんじんの生活・勉強の記録です。

MENU にんじんコンテンツを一望しよう!「3CS」

にんじんの書棚「なぜ、私たちは恋をして生きるのか」

 九鬼周造の『「いき」の構造』を通して、相互に関わりあい影響を与え合い「自己を変わり合っていく」というような人との関わりの根底にあるところを教えてくれる一冊。自己を定義するためにではなく、脆い自己を定義し続けるために他者が必要だという話だと理解しています。自己と他者を据え関係を立てるのではなく、一応据えてはいるけども関係のなかでどんどん変容していくのが、いわゆる「東洋的」な思考なのだなと感じました。

 以下、要約です。

 

恋愛ってなに?

 恋愛とは、「君じゃなきゃだめ」なものである!

 個人vs個人であり、独立した他者と理解し合うことである。「自分の存在の単独者性」の発見である。個人としての自己の発見である。だからこうした恋愛観を持っている人は、吉原遊郭で行われていた「いき」の関係性をほんとうのものとはみなさない。遊里は『社会のひずみを受け止め、発散させる装置』として機能していた。いわば社会の外側なわけで、実生活と地続きで歩いて行ける場所にあってはならない。もし実生活と地続きなら発散などできないだろう。そこで展開される男女の関係は虚構である。遊戯的な男女関係である。

 お前は私に惚れているのか。そう問われて、遊女は誓いを立てる(心中立て)。これに対して客が「ほんとにほんと?」とは聞かない。『本当にみえる嘘、嘘とわかりつつ信じる真心、虚実が入り混じった状態を楽しむことこそが大切』だからだ。遊里であるべき男女関係を説くが「色道」である。男と女は虚構の恋を演じるのだ。この美意識が「いき」である―――これが冒頭の恋愛観を持った人々には批判の対象になるのは、きわめてわかりやすい。あたりまえだが、彼らは演じているのであって、フィクションに過ぎない。役の向こうにいる自分と相手の姿が見えないのに何が恋だ馬鹿野郎、と言う具合である。とはいえ、やっている当人たちはまじめである。コスチュームプレイで看護師と患者を演じるのとは違う。これが虚構の恋なのか、現実の恋なのか、そんなことは考えない。『無心に虚と実のあわいにたゆたう』のが「いき」である。

 とはいえ、粋というのが「たゆたう」ことで、恋というのが「たゆたわない」ことだと見るのはおかしい。そもそもふつうの恋愛を観察してみても、ここからが真実でここからが虚構だと線を引くことなどできるのか。いったい、いつ恋ははじまったのか。恋を自覚する前の駆け引きは仮面をつけた単なるお遊戯だったのか? 私たちが恋に感じる「リアリティ」はなんなのか?

 

私がこの本を通して目指したいのは、彼らのもう一歩前に遡ること、つまり、恋という出来事が動き出す瞬間を捉え、その瞬間が変質していくプロセスを追いかけることである。そこから、恋とリアリティがつながっていくメカニズムを明らかにして、恋と自己の複雑な結びつきを解きほぐしていこう。

なぜ、私たちは恋をして生きるのか―「出会い」と「恋愛」の近代日本精神史

「いき」の位置

 揺れ動く関係と不安定に生成する自他の姿があらわれてくるのは、日常的な態度が破られたときである。日常的には、たとえば信頼や約束といったものは相手も自分も変わらないことを前提として成り立つ。相手が自分の力ではどうにもならない存在だということに目をつむる。だが、「非日常」は、それまで見えなかったものをあらわにする。病気にかかって、ああ死ぬかもと思った時に、そういえば自分って死んじゃうんだったなと思い出すようなものだろうか。「いき」はそうした非日常の一つである。他者からどう見られているのかを気にしながら自分を変え、互いに影響を与え合いながら、自他を作り出していく。「恋」も、またそうである。

 「恋」と「いき」は何が違うのか。媚態という二人の関わりあいは、「恋」も「いき」も共有する。それは出発点である。だが「いき」はその可能性にとどまったままで、「恋」は現実化に突き進む。だが、両方とも、現実化したいのは変わりない。「いき」の場合も、相手とどうにかなるかもしれないという可能性がなければ動かないし、どうにかなるかもしれないというのはどうにかしたいということでもある。人は可能性に留まり続けることなどできはしない。それは大抵、恋人とか夫とか妻とかになった時点で終わる。

 器用な人間は、さまざまな可能性を駆け引きし、関係が動き続けるなかで生きることができる。色々なところへ球を打ち、相手からの球を受け止め、打ち返す。それのできない不器用者を「野暮」という。この際、やり玉にあげられるのが、””うぶな恋””である。初恋とか純愛とかは美しいものとみなされるが、それは相手の扱いもわからず自己中心的なものになりがちで、あるいは振り回されっぱなしで、まさに野暮の典型である。そして””真剣な恋””というのもまた、野暮である。彼らは性急に相手を手に入れようとするからである。

「いき」は安価なる現実の提立を無視し、実生活に大胆なる括弧を施し、超然として中和の空気を吸いながら、無目的なまた無関心な自律的遊戯をしている。……恋の真剣と盲執とは、その現実性とその非可能性によって「いき」の存在に悖る。「いき」は恋の束縛に超越した自由なる浮気心でなければならぬ。

 「いき」は相手を縛らず、自分も縛られない。不安定を不安定なままにして生きる。

 「いき」ははじまりを「恋」と共有するがゆえに、たやすく「恋」へと流れる。吉原の遊女たちでさえ、心中を図るほどの真剣な想いに囚われた。ここで重要になってくるのが「意気地」「諦め」という二つのストッパーである。「いき」の特徴としてこの二つがあることによって、「いき」は「恋」にならずに済んでいるのである。「いき」は他人のことをどうにもならないと諦めながらも、諦められず、媚態を働かせる。

 

日常的な他者との「出会い」

 和辻哲郎は、人間は「間柄的存在」であると言った。たとえば生徒の前では、教師は教師としてふるまう。タクシーに乗り込むときはタクシー運転手は見知らぬ他人ではなくまさしくタクシー運転手であり、知らない人と密室に閉じ込められるとは誰も思わない。互いを信頼し、不確定な未来をそれぞれの間柄によって補うことで日常は安定するのだ。

 とはいえ、完全に初対面の相手の場合はどうなのか。和辻はこれを「それまで知らなかった」という間柄だという。今まで知らん奴同士の関係性がそこにあって、それに基づいて行動するのである。この意味で和辻に本質的な意味での””未知””というものはなく、そもそもの間柄を構築するということに苦しむことはない。赤の他人だという関係性であるにしても、和辻にとってはともかく二人の間に関係があるのだから。たしかに初対面のそいつとは赤の他人かもしれないが、赤の他人だという領域を飛び越えて未知なるものになってしまうということは一切ないのか? たとえば両親が離婚してしまい母が母であることを捨てて出て行こうとするとき、これまでの母と子という関係は役に立たない。そこにいるのはまさしく「他者」である。だが、「赤の他人」でもない。間柄が壊れる時に、他者が姿を現す。

 たとえば「恋」は、同僚とか友人とかそういう間柄だったところを外れたところで発生するように思われる。そしてその規定された間柄を壊すのは、突然の、予想もしない何かである。日常の間柄からは捉えられない未知なるものに人は戸惑う。

 

 日常を壊すものを私たちはあらかじめ知っておくことなどできない。それは「偶然」に到来するのである。偶然性の問題 (岩波文庫)は『「いき」の構造』の次に書かれた九鬼の主著である。偶然性とは必然性の否定であり、必然性とは、『ものの性質上の規定であるところの同一性ということを、その存在する仕方としての様相の見地から言い表した』ものである。必然性とは因果連鎖だけでなく、その存在の同一性を意味しているのだ。

 たとえば庭を掘っていて、埋蔵金が出て来たとする。庭の穴掘りは庭の手入れという一般的概念であるが、そのなかで埋蔵金が出てくるのは庭の穴掘りにとって例外的出来事であるといえる。これを「定言的偶然」=一般的概念に対する偶然的徴表という。要するにこの出来事は、一般的概念や因果連鎖によっては捉えることができない。しかし一方、ずいぶん昔に誰かが埋めたのは間違いないのだから、その出来事は必然的だったとも言えるのではないか。だが埋めたからといって掘り出されるとは限らないともいえる。これを「仮説的必然/偶然」という。この因果連鎖をどこまでもさかのぼった先に在るのが「離接的必然/偶然」である。

 和辻の哲学はある間柄という「同一性」の運動であった。友達は友達として安定的にそうあり続ける。だが偶然性はそれを破壊する。私たちはそこから必然性を探しあて、何とか安定しようとする。偶然は無知によるものだと考えるのだ。だがそうやってどんどんと必然性で埋め尽くしても、結局最後には「なぜこの世界は存在するのか」にぶちあたって終わる。そう九鬼は言う。この根本的な偶然性に気づかず、世の中を必然的に捉えるのは狭い見方であり、偶然に驚くのは無知ではなくまさに現実を見据えているからこそそうなるのだ。

 離接的偶然、つまり根本にある事実が偶然的なものだとみれば、すべてのことは最終的に根拠づけられないものとなる。ある人が教師であることはまったく偶然で、偶然の積み重ねによってそこまで来た。だが実際生きて行くのには、その偶然を引き受けなければならない。何かしようと思ってどうにかなるかは偶然であるが、それを積み重ねるしかない。………のだが、私たちはきわめて安定的な日常を送れている。この安定的な日常のメカニズムこそ、和辻のいう間柄的存在というありかたである。

 偶然性が目立つことはない。私たちが偶然を感じるのは、「こうなるかもしれなかったが、こうなった」というときである。京都で暮らす以外に選択肢がないなら、京都で過ごすことに偶然性など感じられるわけもない。ここに可能性と偶然性の関係がある。可能性がまったくなかったら駄目だが、可能性が小さければ小さいほど偶然性のインパクトはでかくなる。

 

偶然が教えること

 『偶然の驚きは、いま自分に与えられている現実が多くの可能性の中のひとつにすぎない』ことを教える。私たちがしかじかの境遇にあるのは偶然である。私たちはそれを忘れて、明日も当たり前にくるものと信じている。だがそれはいくつもの偶然が折り重なったようやくたどりつくところなのだ。

 九鬼は偶然こそが未来に向かって可能性を展開し得る現実の力であるとする。なぜかというと、日常的な安定した場には新しい未来の形などどこにもないからだ。夫婦がけんかして「まあ夫なんてこういうもんだ」と言ってしまえば一応落ち着くが、「他にやりようはなかったのか」と他の可能性を考えることで新しい未来の形が開示される。まさに『偶然において、私たちは無限の可能性へと開かれる』。

偶然性の根源的意味は、一者としての必然性に対する他者の措定ということである。必然性とは同一性すなわち一者の様相にほかならない。偶然性は一者と他者の二元性のあるところに初めて存するのである。……個物の起源は一者に対する他者の二元的措定に遡る。邂逅は独立なる人間の邂逅にほかならない。

 偶然性の核心は他者との出会いにある。これこそが人が自己として生きるはじまりになるのだ。関係が動的に形成されていくその様子こそ、九鬼が「いき」において見ようとしたものである。「いき」という一見面倒な態度をとるのは、他者こそが「起源」だからだ。

 

「なぜ、そこまでして人は他者を求めるのか」

「他者こそが「私」を「私」たらしめる存在ゆえ」

 とはいえ、恋においては特定の他者を求める。ただその裏面には、つねに自己という存在への希求が隠れているということだ。

 九鬼は『情緒の系図』において、人間の情緒を三つに分けた。嬉しいとか悲しいとかいう自己に関わる出来事に対して持つ情緒である「主観的感情」、自己以外のものへと向かう愛とか憎しみとかいう「客観的感情」。この二つは快不快を中身として持つ。しかし、欲や驚きといったものは快不快ではなく緊張・弛緩という方向性をもつ第三のものである。

 九鬼は人間存在の根本を「欲」と「寂」に見る。彼曰く、「欲」とは、対象の欠如に気づき可能的対象へ向かう働きである。人間が欲を持つのは自己の存在継続という目的を持ち、自己保存の栄養衝動・種族保存のための性衝動に基づく。欲は欠如の感覚を伴うが、この欠如の自覚こそが「寂しさ」である。だから寂しさは己の身のあり方を捉えなおさせるものであるから、寂しさを感じる=個体性を感じることである。寂しさにおける個体性を際立たせる現象こそが「恋」である―――だから、九鬼は「恋」を「愛」よりも「寂」「欲」と結びつける。つまり「恋しい」ということである。それは他者を求めることである。

 逆に言えば、そこには他者の欠如がある。その欠如のために、自己は不完全なのである。九鬼はプラトン『饗宴』を引いて、人間は他者と結ばれることによって「全きもの」になろうとしているという。アリストファネスの語る所、人間はもともと全一なる存在であったが、引き裂かれてしまい、つねに片割れを探している。恋しいと他者を求める中で、自己と他者は出会う。そこで自己のリアリティを感じる。そして人はその他者との合同を求める。合同とは、自己を自己として、他者を他者としてそのまま合同することである。

 だが『自他の分離を失うことなく合同する』ことは可能なのか。合同するとはつまり結ばれることだが、もしも「安定」した関係=「間柄」になってしまえば他者性が失われてしまう。だから恋とはそもそも無謀な試みだったのである。そして「いき」とは、これに対する九鬼なりの回答である。他者を手に入れることはできないと諦め、無意味さを痛感しながらも他者へと向かう。ここには自己への関心を越えた他者性への慈しみがある。九鬼はそれを「愛」と呼んだ。

おわりに

 最後はかなり駆け足になってしまった。にんじんなりにまとめておく。

  •  「自己存続を欲する」ことが基礎としてまずある。たぶんこれは生物学的に、自然とそういうふうに出来上がっている、という根拠づけがあるんだろう。人間は存続させるべき「自己」を知っているが、これはもともと他者との関わりによって構成されたものである。しかし他者がいないと自己の輪郭が曖昧になってしまうので、人間は不安に駆られて他者を求め、その欠如を知ることで寂しさや恋しさを覚える。
  •  ここまではいいとしても、特定の他者に向かうと考えるのは飛び過ぎであるように思う。一対一とか、一対多とか、男対女とか、そういう形式を上の議論から導くことはできない。それは生まれた文化によるもので、つまり、先人たちが用意してくれた「真剣に他者と関わる」枠組みなのである。ここには「恋」もあるだろうが、他にも「事業」などもあるのではないかと思われる。とはいえ、「性」と結びつく「恋」のほうが一般的なものになるだろうことは想像しやすい。
  •  とはいえ、実際の現象として、「恋」によって他者の存在を強烈に意識し、同時に自分がどう見られているか気にし始めた経験がある人も多いだろう。ラブコメでもよく見かける展開である。「恋」は「間柄」という安定的な関係になく、ゆらめく。だからこそ自分でも知らなかった自分の新しい側面が見える。しかしそもそも不安定な関係であるから、安定した関係を求めようとする。いわゆる恋愛はこの安定した関係を終着駅とするものだが、しかしそこではもはや、本来の目的である「特定のだれか」をそのまま「特定のだれか」として、他者として受け入れることはできなくなっている。要するに、他者と呼べるほどわけがわからんわけでもないので、刺激がないわけだ。だからそもそも恋愛という営みは最初から達成できないことが約束されている。
  •  そこで「いき」が登場する。それはずっと自己と他者がお互いを求めて踊り続ける舞台である。他者は他者であり自分にはどうにもならず、決して手に入らず、どこにもたどりつかない営みを無意味と感じながらも、反面、相手を求め続ける。他者性への敬意ともいうような、「慈しみ」。これはもはや特定の相手にとどまらない普遍的なものであろう。九鬼はこれを「愛」と呼んだのではないか。

 ところで別の話になるが、こういう本も読んだ。

carrot-lanthanum0812.hatenablog.com

 九鬼の流れでいくと、そもそも「自己」を求めるのは根源的な衝動なのだから、明治に至って日本人が「恋愛」を求め出すのは妙な感じがしないでもない。むしろそれまでは「役割」や「身分」が自己の姿を映し出していたがゆえに、 自己ー他者 という「独立した二つ」「真友」という発想には至らなかったのだろうか。そこから「恋愛⇒結婚」という流れに至る事情は、この本の通りと思う。

 読んだこといろいろ忘れてるのでまた見直さないといけない