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にんじんの書棚「仏教思想のゼロポイント」

 仏教について解説した本のなかで一番わかりやすく全体像を示してくれた本。一言でまとめるにはとんでもない圧縮をしないといけないが、要するに「原初に還れ」みたいなことだと思います。意識現象を発達させ世界の色々なものを境界づけ分節化してきたのをやめて最初の状態を感得し、その相のもとで世の中をみれば生老病死も現象のひとつにすぎないことがわかる―――みたいなことです。重要なのは修行してもそれらが「つらい」「悲しい」ことなのは変わらないということで、ただ変わるのは、つらいとか悲しいとかいうのも一個の現象にすぎないのがわかるということです。

 あらゆるゲームの内部観戦者になるみたいな感じ。

 

 以下内容要約。

 

第一章 絶対にごまかしてはいけないこと

 仏教の目的は「悟り」、「涅槃」

 でもこれが一体なんなのかわからない。釈迦は生病老死の苦しみから解き放たれたわけだが、なぜかそのまま死ぬことを選ばなかった。物わかりの悪い人々に教えを伝えてやらなくちゃいけないと思い立ったそうだが、そんなことにこだわっているのはまだまだ青いような気もしなくもない。なぜ教えてやる気になったのかよくわからない。

 実際、釈迦は悟った後、人々に説法してやるのが割と嫌だったという。やめようかとすら思ったという。なぜかというと、どうせ理解されないし疲れるからだ。釈迦は「労働」も否定したり「生殖」も否定した。しかしそれらは俗世を形作るものである。世の流れに逆らう教えであるという自覚はあったらしい。

  •   このルールは大変きびしい。取引・売買・交換行為は一切禁止される。「坊さんはお経を読むだけで金が稼げてクソ高い外車に乗っている」というイメージが強いが、少なくとも建前上は「稼ぐ」つもりはない。坊主に渡すのは「お布施」であって、こっちが勝手に渡してるものである。しかしお布施が一切ないと固定資産税も住民税も自動車税もガソリン代も払えない。
  •  異性との接触は禁止。触るのはもちろん駄目だし、会話を思い出すとかも駄目。目も合わせてはいけない。もちろんPornhubなど持ってのほかだろう。

 このルールは出家したものに課せられるものではあったが、在家の信者であっても目的が「悟り」なのだから最終的にはこのことが要求されるのは必然である。仏教が要求するのは「異性と目も合わせないニートになれ」ということなので、ふつう仏教に期待される「人間として正しい道を教える」みたいなのとは真っ向から逆らっているように見える。実際、異性と目も合わせないニートはそれほど高く評価されていないようだ。

 ちなみに修行僧は乞食になって食いつないだ。働けないので恵んでもらうしかない。釈迦自身も乞食になった。ある日彼が食べ物をもらいにいくとせっせと畑を耕していた人が「お前、ほんとになんも仕事してねえな」と言ってきた。どうにも飯をくれなさそうである。そこで釈迦は「宗教的実践は種をまき耕すことだ」みたいなことを詩に読んだらなぜか相手はその詩に感激して飯を用意してくれる――――普通ならここでめでたしなのだが、我らが釈迦はここでは終わらない。持って来た粥を「詩の報酬は受け取れない」といって捨ててしまうのだ。マジで半端ない。

 

 しかしここまで「非人間的」になってまでも成し遂げたかったこと。それこそが悟りなのである。

 

 

第二章 仏教の基本構造

 すべての現象は苦である

 なぜなら、まず現象というのは無常なものである。現象には原因や条件があり、一時的・実体のないものだから。つまり因縁が消えればなくなってしまう。現象は移り行き、常には無い。そして無常なものは苦である。われわれがこの現象界で求めるものはすべて無常なのだから、いつも不満足な結果に終わることは必然である。われわれはそうこうしているうちに死を迎える。

 仏教の世界観においては「輪廻転生」は根本である。われわれは死を迎え、そしてまた再び生を得て、そしてまた不満足な生を送り、死という苦しみを迎える。「苦」とは、単なる苦しみではなく、この終わりのない不満足を指すのである。

 

 私たちにははるか昔から、いくつもの生涯で積み重ねてきた「業」がある。それは形成されてきた行動と認知パターンである。つまり、欲望の対象を楽しみ、それにふけり、それを喜ぶ。これを「有漏」といい、煩悩で心が穢れた状態を指す。われわれが苦から逃れるためには、条件づけられた癖を一切断ち切ってしまわなければならない。

 

第三章 「脱善悪」の論理

 仏教は、煩悩を断ち切るために世間から逆流した生き方を教える。われわれは仏教から、ふつうの意味で「人間としての正しい生活」を学ぶことはない。それは善悪というものにしてもそうである。仏教が向かうのは善悪という区別にこだわらない境地なのだから、善行をなすことは悟ることに比べれば大した問題ではない。

 しかし、だからといって俗世のなかに身を置くにあたっては、反社会的すぎてはいけない。そもそも修行僧は乞食をして生きるのだし、政治体制から疎まれては宗教活動もできない。そこで仏教では「悪行」というものを他人に苦をもたらすことだと定め、やらないようにすすめる。そうしなければ寄付など受けられないし、社会から目をつけられる。仏教は属する国の政治体制がなんだろうが、続けていける。

 

第四章 「ある」とも「ない」とも言わないうちに

 われわれが仏教の基本構造を見るうちで、もっとも受け入れがたいと思われるのは輪廻転生である。仏教に関心を持った人も、どうしても輪廻というものを不合理なものとみなし、それは釈迦の教えではないと思いこみたがる。しかし輪廻転生は仏教において確実に説かれているし、それは仏教の基盤なのだから、輪廻転生の教えを「そんなことはされていないはずだ」と言うのは仏教をわかっていない。

 われわれはふつう、輪廻転生というと「魂」というような、「本当の自己」みたいなものがふわふわと浮いていろいろな身体のうちに宿るのを想像する。仏弟子の一人もそのように考えたことがあって、釈迦にその話をしたが、激しく叱責されたことがあった。輪廻転生するのはそのような「実体我」ではないどころか、釈迦はこの現象界においてそんなものの存在は否定している。なぜならすべては無常、移り行くものなのだから「変わらない何か」は存在しようがないからだ。

 それでは何が輪廻しているのか?

 仏教の立場からすれば、それは「業による現象の継起」である。業によって次の業が起こるというプロセスである。だからWhatと訊いて、輪廻している対象を「モノ」だと思うのは見当違いなのだ。輪廻しているのは移り行くプロセスそのものである。そこに固定的実体は含まれない。われわれはどうしても死んだ人の魂が、別の身体の赤ん坊として生まれ変わるという劇的な場面ばかりを想像してしまう。しかし、いまこの瞬間にも、われわれは移り行く。あなたは「我」というものを想像しているかもしれないがそんな常なるものはなく、あるのはただその時々の「経験我」だけなのだ。

 仏教は「無我」を説き、「輪廻転生」も説く。しばしば矛盾していると受け取られるが、上記のように、矛盾しているどころか調和している。

 

 

 それよりも問題は次のことである。仏教は決定論を支持しているように見えないだろうか。業の作用によって次の業が起こる……われわれ自身も現象のうちの一つに過ぎないのならば、少なくとも「自由な選択」などというものはありえない。釈迦が悟ったのも、釈迦自身がどうこうというよりも、そうなるべくしてそうなったはずだ。

 実際、マッカリ・ゴーサーラという釈迦と同時代の思想家はそう考えた。「業の作用が尽き果てるまで輪廻を続ける人々はその浄化の過程が過ぎれば苦の終局に至る」と説いた。つまり修行だとか精進だとかにはなんの意味もないどころか、不可能だ。だから、すべては運命に任せるしかない……。

 悟りをひらいた人はこの輪廻の輪から抜け出すことができる。それが釈迦の教えだが、では「輪廻の輪から抜け出したところには本当の私がいるんですか」と質問されても、彼は絶対に答えようとしなかった。つまり答えないという態度をとっていた。もし輪廻の外に実体我がいるのなら、彼が決定論を突き崩すことができるかもしれない。彼は業に支配されない存在なのだから。だが釈迦はそんな問題には関わらない。彼はそのような形而上学的問題に云々するよりも、今目の前の課題である解脱のために精進しろ、と教える。自由だろうが自由じゃなかろうが、どっちだろうがもうすぐ死ぬのは変わらない。自由じゃなかったとしても仏教の立場を信じるならば、修行をするのが一番早道である。

 

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第五章 「世界」の終わり

 釈迦は輪廻を超え出た先にある実体我について何も語らなかった。というより、彼は形而上学的な問題には何も答えなかった。「現象が無常なんだし、やっぱり世界自体も無常なのだろうか」「世界は無限なのだろうか」といろいろ問われて、彼はやっぱり答えない。それである人がなんで答えないのかと尋ねると、だいたいこういう意味のことを言ったそうだ。:世界が無常だとか無常じゃないとか、有限かとか無限かとか、そういう発想が『我執』なのだ。我にとらわれているのだ

 釈迦は「世界」というものを、欲求などの意識のはたらきも含めていわゆる認知されているものすべてであると捉えていた。いわば欲求相関的に形作られた全体。たとえば好きな食べ物は単なる食べ物というよりも、それよりいいものとして映るだろう。単なるそのもの、というよりも、ちょっとだけ色付けがされているような、そんないろいろのものの全体が世界である。

 われわれは普通こういう世界に生きているのだが、悟りを開いている覚者の皆様は煩悩というか、欲求がない。だからそもそも覚者においては「世界」が成立していない。

 

 ところで釈迦は悟りを開いてから相当動き回っているし、いろいろ人とも話しているし、つまりは生存し続けているわけだが、「世界が終わってるくせによくそんなことできますね」と文句をつけたくなるのも自然なことだと思われる。世界の終わりに達するというのがどのような境地なのかを考えるために、マハーコッティタという人の言ったことを見てみよう。

 彼の弟子が「世界の終わりには、やっぱりモノが存在しないんですよねえ」と訊くと「いや、違う」とマハーコッティタは答える。「それか、うちらの感じるのと違う別のものが存在するんですか」「違う」「存在するし、存在しないみたいな?」「違う」「んじゃ存在もしないし、存在しないことでもないんだ」「違う」とにかく、否定ばかりしてくる。論理的にありうる可能性をあげつらっても違うとしか言わないので弟子が不思議がっていると、「その質問はどれを肯定しても、分別の相にないものを分別の相にもたらすことになる。分別の相が機能する限り世界はあるのだから、その問いには答えられないわけだ。分別の相が消えているのが、世界の終わりだよ」と言う。

 つまり、覚者に消えているのは「●●がある」とか「●●がない」とかいう前にその●●を取り出してくるというその作用・判断である。覚者は認知不能に陥っているわけではなく、あらゆる分別をすることなしに現象をありのままに見るのである。

 逆に言えば、悟ってないわれわれはありのままに物を見れていない。「異性」といえばなんらかのイメージとか、物語を背景にして、それを見てしまう。異性という、たとえばその「女」は、無常の現象がただ移ろいでいるだけのことである。ただの現象に欲望を抱いたり、執着したり、嫌ったりするわれわれは、悟れば単なるモザイクみたいな「女」に対しても美しいだのなんだのと言い始めてしまう。欲求が「世界」を作るとき、「我」がそこにいる。

 現象を欲望に基づいて分化させ世界を形作ること――――これをしないのが覚者である。だから覚者には世界なんてものはない。逆にいえばふつうの人々が世界についてアレコレ語っているのは語っている時点でそこにつきまとう「我」について無自覚なのである。悟りたいならそんなことを話している場合ではない。

 

 ではこのような悟りに達するためにはどうすればいいのか。それが「気づき」である。放っておけば対象への執著に流れていく煩悩のはたらきを気づきによってせき止める。そして智慧によって塞いでしまうのだ。

 気づきというのは、自覚的であることである。対象への欲望に気づくことである。生成し消滅していく現象を観察するのだ。癖によって盲目的にやり続けていることを気づきがせき止める、という言葉の意味もわかりやすいと思う。いかなる時でも自分の行為に意識を行き渡らせ、欲望があれば「ある」、ないなら「ない」と気づく。このような意識を日常化することで盲目的な煩悩の流れをせき止めることができる。

 煩悩の流れをせき止めたものは、悟りの条件を満たしているという。彼は現象の無常・苦・無我を見る。仮に内面に欲望が起こっても、それを執著にまで発展させることがない。欲望も所詮現象にすぎないことを彼は知っているからだ。

 いわゆる仏教のマインドフルネスとか瞑想とかいうものはこれを目指している。心身の健康とか活力とか、元気になるとか、集中力がどうとかそういうことではない。

 

 

 

第六章 仏教思想のゼロポイント

 煩悩の流れをせき止めることが悟るための唯一の道なのだが、当たり前のように、そこから悟るのはそれほど簡単なことではない。もしあなたが「よし今日から女に余計なイメージを持たずに単なる現象として見よう」などと思ったところで数日後にはPornHubである。ジブリ飯を見ておいしそうなどと思ってはいけないし、タランチュラが腕に這ってようが叫んではいけない。ゴキブリなんてただの現象だと思っても飛ばれるとキレるだろう。釈迦がマジで悟ってるとすると、どれだけヤバイ(すごい)ヤツかがわかる。多分拳銃突き付けられても平然としているし、アイアンメイデンに入れられても真顔だろう。

 というわけで、煩悩の流れをせき止めるだけではいかん。塞いでしまう必要がある。根絶してしまうのだ。もちろんせき止めるだけでも何かに執著することは薄くなるが、絶やしてしまわない限り数百日後にはPornHubである。根絶のために必要になるのが「智慧」である。この智慧とは、概念的思考ではないので注意を要する。世界の終わりでは、そもそも概念的思考とかそんなものはない。もちろん智慧を使うのは「世界」のギリギリのところなのだが、だとしても世界の終わりに至るためにその真逆の概念的思考を使うのは不自然だろう。

 解脱の達成は決定的な認知の変化であり、変化したら戻らない。この変化はある日突然やってくる。シーハーという比丘尼(女修行僧)は、どうあっても解脱できないので七年間も苦しみ悩んだ。そうして遂に自殺を決意するのだが、ロープに首をかけた瞬間に悟った。ここには概念的思考など入り込む余地はない。シーハー比丘尼は七年間、ずっと教説について考えていたのだが、さぁ死のうと思った時に解脱したのだ。

 釈迦は「すべての現象は無常」だといったが、「悟りを開いた状態は常だ」ともいう。悟った状態は世界というものが消える。生成消滅するということがなくなり、無為である。そのような境地があることを知り、それこそが最高の楽であるということを知ったとき、修行僧は本当の意味で「すべての現象は苦」だと理解する。依存症の人が依存を断ち切ってあぁこんなものはカスだなと本気で考え方を転換するような、それが悟りである。

 

 第七章 智慧と慈悲

 さて、事実として釈迦は病気になって死んだ。悟ったわりに普通の死であるが、解脱しているので釈迦の業は彼が亡き後に輪廻することなく、その輪から外れるという意味では特別な死である。彼は悟っているのだから、亡くなるときには生老病死というものが単なる現象の継起にすぎないことをはっきりと把握していたことだろう。

 一番の問題は彼が死んだことではない。なぜ悟った時点で死を選ばなかったのかである。悟った時点で、釈迦は人間というものが単なる現象にすぎないことを理解した。ならなぜそんな人たちを教えてやらないといけないのか。それは少なくとも優しさではないし、愛情でもない。人々が哀れだったわけではない(「あわれみの心が残っていた」ことがわかると書いてあるが、中立的な出来事にあわれむのはおかしい。著者はそういう判断こそが世間にいる人の判断だと言っているが、悟ればなんでもアリになってしあう)。ただ輪廻しているという、それだけのことで、良くも悪くもない。説法してやる意義も必要性もまったくない。

 とすると、釈迦は「遊んでいた」ことになる。悟ったあとの世界を楽しんでいた。必要性など一切ない遊び。意味など無い。釈迦は悟る才能のあるものだけ説法してやり、悟らせてやることにした。別にいいことをしているつもりではない。

 

 釈迦は世界で生きている人々を悟らせるためには、世界のことばで語ってやらなければならないと気づいていた。「物語」で人々を悟りまで少しずつ導いていく。原始仏教はその物語の一つに過ぎない。覚者によって物語は様々ありうるが、それが仏教の多様性に繋がっているのである。

 

 

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