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にんじんと読む「比較不能な価値の迷路」🥕 ② 国家はそもそも必要なのか?

 

社会契約論には二種類の正当化が使われている。つまり、自然状態での生活に勝るという帰結主義的なものと、自発的合意によって成立するという発生的なものである。だから仮に合意によらなかったとしても、帰結主義的には正当化されているわけで、やはり成立した国家は支持される。というか、実際のところ発生的な正当化を証明することなどできないのだからこの方面は最初から破棄しておいたほうがよい。

 さて、社会契約論による国家の成立がもたらす帰結は、囚人のジレンマ問題を国家が解決してくれて嬉しいというものだった。ところがこれに対して、「別に国家なんかいらないだろ」という議論を提出したのがゴーティエである。ジレンマ的状況に対して自分にとっての最大効用を重視する奴と、他者が協力してくれるなら他者のことも考慮にいれる協力的な奴の二通りを考えてみよう。要するに前者は「とにかく裏切る」、後者は「協力するなら協力する」。ホッブズが想定したのは前者のような対応をする奴らだったのだが、実は協力するなら協力するという当たり前のことをするだけで効用は増えるしそこに強制力などまったく必要ではない。

 しかしゴーティエの批判を聞いてすぐに思い浮かぶのは、そもそも「他者が協力しようとしているかどうかがわからないからこそ困ってんだろ」という反論である。そしてもっともっと問題なのは、彼の話がうまく進むのは、全員が全員協力的だからである。裏切られるかもしれない、いつ裏切られるかわからないとびくびくして逃げ出すタイミングばかりうかがっているような奴がいたら終わりなのだ。このことを逆から言えば、国家の使命というのはこういう人たちを強制することなのだ。