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にんじんと読む「フッサール 起源への哲学」 事象そのものへ

事象そのものへ

 フッサールデカルトは超越論的動機(最終的な源泉・地盤を突き止めようとする)を共有する。だがデカルトが「絶対に疑い得ない確実なこと」を求めたのに対し、フッサールは「認識の起源」を求めた。認識の起源とは、私たちがどう考えるにせよそこから考えるしかないような場所のことである。すなわち、それが絶対的に「真」であるかはわからないが、どうしたってそこから考えざるを得ないようなそんな場所である。二人はゴール地点が異なるので、そこへ向かう方法も異なる。デカルトは『方法論的懐疑』を用い、フッサールは『超越論的還元』を用いた。

 デカルトは疑わしいものをとりあえず脇にどける。つまりは「偽かもしれない以上は放置!」ということを繰り返し真なるものにたどりつこうとする。だがデカルトは真や偽があることをはじめから前提としてしまった。私たちは非常に多くのことを当たり前に存在すること、正しいこととして受け入れている。だがその妥当性の根拠はいままったく明らかでないのだからそうした一切の判断を中止し、真でも偽でもなく中立化させなければならない。

 『現象学的還元』とは世界の一般定立(世界の存在に対する承認)を停止する。それは「……は確実に存在する」「……は疑わしい」「…である」「…でない」「……でありうる」といったような判断の様相をすべて無効化する。それは単にそう考えられただけのもの(純粋現象、単なる現象)となる。この単なる現象というものは、私たちの意識に映るなんらかの対象や事態のことではないことに注意しなければならない。たしかに「世界は存在する」という判断を宙づりにするために「私には世界が存在すると思われる」のように「私には~と思われる」とすることは適切であろう。しかしより厳密にいえば、「何か」が「私」と呼ばれる誰かに対して「私には~と思われる」という仕方で現象しているということの全体が純粋現象なのである。純粋現象は誰かの心に生じたものではない。誰かの心に生じたとか、そういう判断はこの純粋現象を基盤としたあとの話なのだ。