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にんじんと読む「経験の構造」🥕 第二章

第二章 真理と実在

 現出を手持ちに説明していこうとするとき、「あれはたしかにヘビだ」というためには、ありとあらゆる側面から完全に「ヘビである」ということがわかればよいということになるが、””ありとあらゆる側面””などそれこそ無限にあるわけで一生真理には到達できないということになる。『だとすれば、真理について語ることにいかなる意味があるのだろう』。

 第一に、真理は個別の経験を可能にするものとしての超越論的機能を持つ。目の前に見えているスマホはそのつどそのつどの知覚体験を超えた「同一物」である。仮にスマホを見失おうがその間スマホが消滅している訳ではない。そのつどの知覚体験を超えて自己同一性を保っているという経験が可能になる条件を超越論的条件と呼べば、真理はまさにその機能を果たすのである。一般に、A1がBのアスペクトであるとは、Bに対する知覚条件が変化した結果得られる系列のなかにA1が位置づけられることである。スマホのほうを見ていないときスマホが見えないのは当然であり、もしどこを向いても何をしていてもスマホが視界の片隅にあるようならそのほうが異常である。系列とは経験進行の規則であり、完全な系列こそ真理に至るものである。系列があってこそアスペクトアスペクトたりうるので、個別の現出という経験は真理との関係のなかにある。

 第二に、さっきまでロープだったものがヘビだとわかったときのことを考えよう。道に落ちているロープは勝手に動かないし、チロチロと舌を出すことはない。だというのに近づいてみると「ロープ」がしない挙動をしている。するとその挙動は目の前のそれがロープであることを否定し、より整合的な「ヘビ」へと意味全体が変化する。同一化綜合に「さっきの、茶色くて細長いものは、舌を出して動いている。それに……だ。ゆえにこれはヘビだ」というものが付け加わる。ロープに見えたこともヘビに見えることもその時点では明証で、はっきりとした経験だったのだが、ヘビの明証によってロープの経験が訂正され、新たな反証が現れるまではそれが妥当し続ける。しかもそれまでは過去・現在・未来のすべての時点で正しいものとして有効になるのである―――ここに「時間の流れを超えて、永遠に妥当するもの」の場所がある。明証の相対性から真理の絶対性が解明されるのはこの構造によるものだ。もちろん、なにがその場所を埋めるものなのかは特定されない。

 第三に、この真理は、絶対主義も相対主義も回避できる。これまで見てきたように、いかなる認識も絶対的ではありえない。そればかりではなく、そもそも「真理」自体をあらかじめ存在するものだとしていないので、それを手に入れられる(絶対主義)とも、手に入れられない(相対主義)とも考えないのだ。

このような経験構造から脱出不可能なわれわれになしうることは、手持ちの認識を絶対的と主張することでも、その相対性に居直ることでも、あるいは絶対的真理が入手不可能であることに悲嘆することでもない。破綻をきたしたものとして排除されない範囲内で、現在手持ちの材料から主張しうることを主張すること、真理の否定的機能に反しない限りで弁明可能なことを主張することなら、志向的相関の限界内にある人間にも可能である。

経験の構造―フッサール現象学の新しい全体像

 ところで、能動的活動が行われるためにはその前提としてさまざまな周囲環境が既に与えられている。それによってはヘビをロープに見間違えることなく「あっ、ヘビだ」と最初から言えたかもしれない。周囲環境は何を知覚するかの前提である。

 この認識活動の前提たる周囲環境は「受動的先所与性」である。つまり前提であるがゆえにあらかじめ観察したり確証するということはおこなわれない。またそれゆえに、周囲環境に「疑い」などが差しはさまれる余地は一切ない。そもそもそれがないと能動的認識活動ができないのだから。

 このような周囲環境のことをフッサールは「土台としての世界」と呼ぶ。経験に先行していつでも世界は構造化されており、それ以前とか構造化に居合わせることとかは原理的にありえない。そうした世界は経験によって可能になるものではなく経験に先立つもので、経験が可能であるために必然的に要求される。

 こうした「世界」はもちろん、能動的な活動や検証作業をするフィールドを提供するが、このフィールドでなにが正しいかなどを根拠づけるものではない。経験の構造のなかに組み込まれたこの世界は基礎づけ主義のプログラムそのものを否認している。