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にんじんと読む「フッサールの現象学(ダン・ザハヴィ)」🥕 ②志向性という概念

志向性という概念

 志向性というのは対象と作用との根本的な結びつきのことであり、「意識は~についての意識である」という風な標語もある。だがそれは一体どのような結びつきなのか。

 最もシンプルに思いつかれるのは客観主義的なものである。対象に向けられているというのはその対象から影響を受ける場合だけだという。太陽が熱く感じられるのは太陽が熱を放っていてそれが私たちに影響を及ぼしているためであり、この見解によれば、志向性は世界の中の二つの対象の間の関係ということになる。だがこれは支持できない。なぜなら、私たちはペガサスについて考えることができるが、そんな対象は存在しない。私たちは落ちているロープをヘビに見間違えることができる。つまり、「対象」が存在しなかろうが、依然として志向的なのである。

 すると今度は逆に主観主義的な解釈を支持したくなる。つまり、志向性とは意識と意識対象の間の関係であり、対象がいつも存在するわけではない以上、まずそれは心の中の対象ということになる。その対象というのは意識が作り出したものであり、すなわち対象はすっかりぜんぶが作用の管理下にあるわけだ。(1)そう考えると対象の同一性は作用の同一性に完璧に依存することになる。だが明らかに異なる作用が同じ対象を志向することがあるし、私たちは昨日も今日もリビングに「同じ」テーブルを見るのであって、昨日のあの瞬間のテーブルがたった一度しか経験できないわけではない。しかも、これが正しいとすると私とあなたで「テーブル変えない?」などと会話することさえできない。―――この解釈が犯している誤解は、心理主義が犯している根本的な間違いに基づいている。(2)テーブルはいつも、ある一側面から見られる。テーブルそのものが全体として目の前に現れることはない。現出するものと現出そのものは区別されなければならない。これは『作用の所与の様態と対象の所与の様態の差異』である。もし対象がすっかり意識に含まれているなら、この区別は消え、意識にわからないことなどなくなる。また、私たちが空想するペガサスという対象が、まさにテーブルと同じ地位において語られることとなるだろう。

 では志向性とはどのような関係のことなのか。ほかにどんな選択肢があるのか。

 そもそも意識の外部に対象があり、意識には対象の像が浮かんでいるという区分は、なぜそれが同じものだとわかるのかという問題を孕んでいる。そもそも二つは定義上、異なるもののはずだからだ。だからそもそもこういう風に、二つの存在者を前提する時点で、話はおかしくなってしまう。

 外部に対象があって心にその像ができるというが、この特性は自然なものではない。それができるというのは、そのように解釈することができるということである。すなわち、『絵画は、像を構成する意識にとってだけ像である』ということだ。ナポレオンの肖像がナポレオンになるのは、そういう風に見るやつがいてこそである。そういうわけで明らかに、なにかをなにかに代表象させるというのは別の知覚を前提としており、なにかを知覚するために代表象させないといけないような理論はすべて間違いなのである。言い換えれば、経験は心的表象によって媒介などされてはおらず、まさに目の前に現前している。

 志向性は二つの存在者を前提しない。対象が存在しなくとも、見ることは志向的でありうる。たとえそれが錯覚で、対象がほんとうはなかったとしても、それはその対象に向かっているのである。志向性は対象によって触発されるものではなく、単純になにかに向けられているというそれだけにすぎないが、私たちはこれによって二つの存在者の存在を前提し主観と客観の一致という困難に出会う必要はなくなる。これだけで十分なのだ。