にんじんブログ

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にんじんと読む「性の進化論」🥕

 男と女が出会ってからの「自然」な流れは大体次のように説明される。

 男と女が出会うと、二人はお互いの値踏みをはじめる。男は女が健康であるとか、若いとか、経験人数とか、貞節とかを気にする。女は男に力を求め、その力を自分と自分の子のために行使する意思があるかどうかを気にする。お互いの評価基準を上回ると二人はセックス契約をして、女が相手をその男だけに決める代わりに男の富を手に入れる。二人ともがいつも不貞行為の兆候を探し、しかし一方で、もっと出来のいい異性がいればなんとかかんとか言い訳をしてヤろうともくろんでいる。

 男は嘘つきゲス野郎で、女は金目当ての嘘つき男たらし。女は究極的には体と引き換えに金を得ようとする売春婦だというわけだ。これは進化心理学的な前提であり、私たちはそのように進化してきたのだといわれる。本当か?

 

 ある狩猟採集者が言った。「この世には、これほどたくさんのモンゴンゴの実が生っているのに、どうしてわざわざそれを植えなきゃいけないのか」と。しかし人類は農耕社会へと進み、エデンの園に生っている実をもいで食べるだけの生活をやめた。おかげで、とんでもない副作用が出た。ここに仕立て上げられたのが「原罪」というストーリーである。われわれがこんな目に遭ってるのは罪があるからだと。狩猟採集生活から農耕生活への移行がわれわれにもたらしたものは、飢餓の増大、ビタミン不足、発育不全、寿命の急激な縮小、暴力の増加であり、褒めるべき点はほぼない。

 ホモ・サピエンスの傑出した特徴は大きな脳ではなく、セックスをめぐることで大騒ぎすることである。大きな脳は私たちの社交性に由来しており、社交のための能力を磨くためにでかくなったのだ。一方、ホモ・サピエンスのエロは過剰に過ぎる。ボノボとヒトに「だけ」にとって、生殖に結び付かないセックスは自然である。生殖のためのセックスしかしないほうが自然界としては普通であり、生殖のためではないセックスは極めて人間的だといえる。

 狩猟採集社会の特徴を見よう。アマゾン先住民はこう考えている。「胎児というのは精子の蓄積によってつくられる」。だから母親は多彩な男たちに協力を要請し、さまざまな精子をミックスする。あの男はこんなところが素敵、この男はあんなところがいい、……だからそういうところをたくさん子どもに与えようとする―――このような胎児に対する理解は単純な狩猟採集社会から初期農耕社会までを含む広範囲の社会で見られる。つまり、一人の人間に父親が複数いるのはあたりまえのことなのだ。そして父親の数が多ければ多いほど、それだけ特別な関心を持ってくれる人が多いということで有利になることはあれど、サノバビッチと蔑まれることなどない。そして父親のほうも俺の子じゃないかもしれないなどとキレたりすることはない。では女は、特定の男の保護と特定の男のために貞節を捧げる必要があったのかというと、まったくそんなことはない。性的関係が入り乱れていると親の責任が分散し、子は共有される。

 人類にとって最も落ち着けるのが核家族なのか。私たちは法律的に優遇することで核家族を維持し、同性愛だとかはずれたことをすると非伝統的だと言ってなじる。だが現実は核家族世帯の割合はガンガン減少している。そもそも「結婚」を望むのはそれほど人類にとって普遍的な性向なのだろうか。普遍的だというからには狩猟採集社会においてもそうなのだろうが、そもそもこの社会では「結婚」とはなんなのか。どう定義されているのか。どこの人間だって男女一組になる瞬間はある。この世の中には多種多様な繋がり方があり、そのすべてを私たちのいうところの「結婚」という型にいれてしまうことなどとうていできない。古代ローマでは花嫁が新郎の前で友人たちとセックスする。こうした騒ぎは初夜を過ぎてもまだ続く。私たちの考える「結婚」など、恐ろしく特殊な形態に過ぎず、男女関係の多様さをその一言に押さえつけることなど叶いそうもない。