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にんじんと読む「小さな死生学入門」

「小さな死生学入門」

 どうにもならないことだが、私たちは誰しも最後は死んでしまう。これは私というものの最大の喪失であろうが、老いてくると病気がちになるなど、単に喪失体験というのならばこれ自体はひじょうによくあることである。これを大きな死/小さな死と呼んで区別することにしよう。

 死生学において「小さな死」という概念はふつう、喪失体験として語られることが多く、「大きな死」を意識させる、いわばリハーサルのような意味合いを持っている。もちろんそれら喪失体験によって新たな自分自身が形成されていくという側面はあるだろうがそれは結局喪失であり、しかもその場合、小さな死の積み重ねによって大きな死に至るという連続性がなくなってしまう。小さな死でいくら新しい自分が見つかろうが本当の死ではない以上、結局それは死という言葉を使った比喩に留まる。

 そうした小さな死というものが「リハーサル」「喪失」といったような意味合い以上に、「新しいいのち」に繋がるという宗教的意味を持たせているのが渡辺和子氏である。小さな死によって変わっていく私がこれを積み重ね最後に大きな死によってまったく新しい私になる、という。自分を表すいくつもの箱の中身がすべて入れ替わった先にあるものが大きな死だというのだが、しかし、それはもはや小さな死を経験する私では絶対にありえない。著者はこれを良寛の辞世の歌を引いてこう締めくくる―――しかしながら、小さな死と大きな死に経験的な断絶があることに間違いはない。ただ「意味」を付け足しているのだ。

「大きな死」における「全く新しい私」への「変容」というものは、自己が自然の中に立ち返り、自然の中に同化する「私の変容」であると考えるのである。そう考えれば、自己の「無」化と、「全く新しい私」への変容は、「大きな死」によって両立するのかもしれない。

小さな死生学入門