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解決可能性(日記)

2022.06.11記

 問題の解決可能性は明らかに、その問題が実際に解決できるかにかかっている。閉じ込められた牢屋の鍵を開けるのに「看守の持っている鍵を観察し、木工室でレプリカを作り、解錠する」という映画並みのテクニックは脱獄という目的をたしかに提供するものの、これが実際にうまくいくものであるかどうかはその牢屋によるとしかいいようがない。持ち出すことができるか、折れずに錠前を回せるかなどなどさまざまな問題が山積している。もしこれが普遍的な脱獄手段ならば囚人を牢屋に閉じ込める意味はどこにもないだろう。私たちはすべての出来事に対して一種の「賭け」を毎日のように繰り返しているのに、この賭けを忘れ、「法則」という時間的・空間的条件によらないという意味での置き換え可能性に身を預けて来た。AとBという組み合った歯車は、Aを回せば、必然的に、Bを回すと信じ切っているので、Aが損壊する可能性のあることを忘れている。それを忘れていない人でさえ、理論に損壊可能性を組み入れた法則性に安心しているだろう。真理という理念は私たちを導いてくれるが、どこにも連れて行ってはくれない。

 だがこのような「賭け」の存在を思い出したところで、問題の解決可能性についての私たちの信念はいささかも揺るがない。その信念というのは、「どうにかなる」ということであり、その方法は努力によってアクセスできることであり、すなわち、どうにもならないことの存在はその人の努力不足を帰結する。私たちは操作不可能なことに出会うと動揺する。それが怒りになるか、どうなるかは人によるが、そこで感じるのは自身の無能さだろう。しっかりと備えていればこんなことにはならなかったと。

 (1)解決方法にアクセスするための知恵は鍛えることができ、(2)そもそもそういった方法が現に存在しているのならば、私たちは自分の無能さを恥じ入ることになる。あなたに降りかかる問題がすべてあなたの責任で起きたことでないならば、このいずれかは確かに間違っていなければならない。たとえば「死」はどうにもならないことの典型的な例であると考えられているだろうが、実際のところ、その点は怪しい。死をどうにかできると思う人もいれば、多少なりともマシなものにできるだろうと考える人もいる。「解決」の幅は恐ろしく広いので、たとえ木製の鍵が牢屋に合致しなくても、その方法を知っているというだけで「マシ」なのだ。この「マシ」も解決にあたる。なんでもいいから努力することはなんにせよ何もしないよりはマシであるのだから努力しなければならないし、やらないで問題が起きたらお前が悪いという話になる。―――なにかがおかしい。