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まじめな人間(日記)

2022.06.23記

 すべての行為に目的はあるだろうか。たとえば仕事に行くのは「私はお金を得るために仕事へ行く」と目的論的に説明することができる。お腹の減っている人がレストランに行くのは食欲を満たすためだろう。あくびをするのはなぜなのか、なぜ猫背がだめだとわかっていながら猫背なのか……意識的に行為に目的を持つことを広く見て、意識的な仕方ではないにしても目的論的な言い方で何かを説明することもまた可能であろうと思われる。それと同時に、私たちは意識的・非意識的にいくつもの説明が可能であり、また、なぜその行為を行ったかという反省によって得られるそれらの説明は明らかに検証に耐えられないこともある。たとえば家族で毎晩食事をとる人は、その食事を純粋に食欲を満たすため、あるいは家事の効率のためなどと説明するかもしれないが、誰かと一緒に話しながら食べることのよろこびを軽視している場合もありうるし、あとになって食器洗いの効率などどうでもよかったことに気づくこともありうる。

 もし性行為の目的を生殖に限っている人がいれば、彼は性行為を彼以外の人のようには楽しまないだろうことは簡単に想像できる。性行為は彼にとって重荷であろう。というのは、目的に奉仕する手段というのは、ある程度必要不可欠なものであると同時に最も必要のないものであるからだ。家が欲しいという目的に限ってハンマーを打ち下ろす人にとって最も必要でないものがハンマーであるという理屈は、お金を唯一の目的として仕事をしている人にとって仕事が最も不要なものであると言えばそう奇異には響かない。サッカーというスポーツは、手を使わずにゴールに球を放り込むのが目的であるが、11人全員で円陣を組んでじわじわと相手のゴールに近づけば最も効率がよいのに誰もそうしようとしない*1

 ゲームプレイにおいて最も邪魔な人間は二種類いる。ゲームに対して無関心な『冷めた人間』と、執拗なぐらいゲームの目的を追求する『情熱的な人間』である。

 

 

*1:実際のところでは、こういう行為は競技規則に違反する。たとえばコートの角にボールを置いて終了時間まで壁を作ると反則となり相手チームからのフリーキックが命じられる