にんじんブログ

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だらだらと日記(日記)

2022.06.29記

 どんな物事も新しい側面を見せる可能性をいつも孕み続ける。私たちの夢想する自分というものの確かさと非-我との決定的分裂が、自己の中身を空虚にし、関係を二次的なものに後退させ、道徳は邪魔ものになった。だが私たちはもちろん、近代的自我が成立する前の、見知らぬあの頃には戻れない。概念を解明し、やむを得ないことを受け入れ、折り合いをつけなければならない。

 だが一方、「折れなければならない」というあきらめが年寄りの説教のように響き、さらには、「あきらめてはならない」という謎の声を聞くこともあり、結果あきらめずに突進し失望を味わう。困ったことに、世の中には本当にあきらめないほうがいいこともあるので、折れづらい。どうせ飛ぶなら、あきらめずに進みたいのが人情である。世界には、死なずに済む・老いずに済む方法を研究する人はたくさんいる。なにかしたくてたまらない。なにもしないと、まるで社会から放り出されてしまうように、なにかをしている。

 幸福は所属している共同体に依存する。自分の好きなようにしたい人はどの共同体にも属したがらない。友達や仲間、恋人がいないというよりも、いないようにしてきたのかもしれないと考えてみることは何かをもたらすことがありうる。人間はケアをされ、ケアをする動物の一種であり、自分では知られない類の善きことが数多く存在する。

 だが、「では明日から頑張ります」というわけにはいかない。

 結婚式とかいう昔からある儀礼すら押し付けだとか言い出し始めている。儀礼が押しつけがましいことぐらい校長の長話で察してもよさそうなものだが、にんじんにもそれが鬱陶しい気持ちはわかる。でもああいうことがぜんぶなくなったら、どれだけ世の中は荒涼としたものになるだろう。「遊びがない」とでもいえばいいのか。社交の意義はあきらかに軽んじられているし、実際、にんじんも軽んじているが、たぶんこれこそ再び見直さなければならないことなんだろう。何度でも言うが、「お疲れ様です」という挨拶は別に疲れていないだろう相手にも言っても良い。「おはよう」と昼時に起きて来たやつに言っても問題はない。「今日も暑いですね」にたいして「そんなこと言われんでもわかるわ」と断ち切るのはどうかしている―――社交などそんなことばかりで、無意味なおしゃべりだらけだ。「コード」を共有しているかどうかのチェックにもなるだろうが、どちらかといえば、卓球のラリーみたいなものなんだろう。意味なんかない。ただの遊びである。

 遊びというものが自覚されたのは、「労働」と同じぐらいであり、「子ども」と同じぐらいである。遊びというものは訓練なのだと考えられてきた。というより、「遊び」を意義のあるものだと考えたかったのだ。だがそこに目的などない。