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にんじんと読む「グライス 理性の哲学」 ②

 オースティンの哲学のやり方をみよう。

 たとえばあなたが人をぶん殴ったらあなたに責任がある。だがもし伸びをしようとして腕を伸ばしたときにうっかりぶつけてしまったなら、普通に殴りつけるより責任は軽いだろう。つまり「行為の責任というものは自由な意志のもとでおこなわれた場合に強まる」という考え方はそれほど不自然なものではない。だがそうだろうか? ここで考えられている行為というのは意図的か、意図的でないかのいずれかであり、それ以外の行為というものは想定されていない。意図的に〇〇したか、意図的でなく〇〇したかのいずれかなのだ。だが私たちはふつう、こんなふうに動詞を使わない。たとえばあなたは自分が椅子に座ったことを「わざと座った」とは言わないだろうし「うっかり座った」とは言わない。普通は「座った」という。動詞をわざわざ修飾した仕方で用いるのはその行為が逸脱的になされている場合だけだ。「こいつはあいつをわざとなぐったのか、わざとじゃないのか」という質問をされるとどちらか一方を答えとして挙げていいような気分になってしまうが、本当にそうといえるだろうか。

 「本物」についてもそうである。ふつう、それって本物なの? と問われるとき、それが偽物となる特定の仕方が想定されている。あのオアシスは本物なのかと訊くときはいつも、それが蜃気楼じゃないのかということが示唆されているのである。だが哲学者はいきなり物を取り上げて「これって本物? 偽物?」と問い出す。どのような仕方で偽物であるかもわからないのにそんなことを言われてもわかるはずがない。